間並みが怖れるところの猛獣毒蛇をさえ怖れないし、日月星辰をも友達扱いにしようとするほどのイカモノですから、特にそんなに怖れるものは無いはずだが――さては、いつぞやお杉の女《あま》ッ児《こ》をおびやかした海竜でも、本当に出現したのかな。
 ところが、その海竜は、この子には恐怖の対象ではなくして、風説の製造元であったのだから、海竜もまた親類であるべきはず。
 では、何を怖れたか。つまり、この子の怖れるものは人間のほかにはないのです。人間につかまえられて、人気者に供される以上の恐怖は、この子には無い。
 甲州の上野原でも、こんなように無邪気になっているところを、不意にがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵なるならず[#「ならず」に傍点]者につかまって、いやおうなしに江戸へ拉《らっ》し去られてしまったではないか。幸い、江戸に於て田山白雲を見出して、その背に負われて、この房州へ連れられて来たが、怖れるところのものは、右様の人間のほかには、この少年の前にはありません。
 多分、そんなような、胡散《うさん》な者を、たった今眼前に於て、感得したればこそ、彼はかくも一目散《いちもくさん》に走り過ぎたもの
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