、※[#「さんずい+玄」、第3水準1−86−62]然《げんぜん》として流るる涙を払ったこともないではなかったのです。
 子供の時分、名主様に舌を捲かせ、貴様は日吉丸になるか、石川五右衛門になるかと呆《あき》れさせたことのある自分も、よく通れば、日吉丸ほどでなくとも、五右衛門の出来そこないにはならなかったに相違ない……それがかくして今、こうして暗く歩んでいる。
 それを考えて、七兵衛のいただく天地に、かつて明るいことがなかったのですが、今日は、全く別な世界を歩みはじめた気持です。
 この世界には、この足を必要としないで歩み得る世界がある。それは海だ!
 そこは、自分の特長は全く無用視されるが、自分の身に安心が予約されるではないか。
 船というものは全く別の世界になり得る!

         十二

 田山白雲が勿来《なこそ》の関《せき》に着いたのは、黄昏時《たそがれどき》でありました。
 勿来の関を見てから、小名浜《おなはま》で泊るつもりで、平潟《ひらかた》の町を出て、九面《ここつら》から僅かの登りをのぼって、古関《こせき》のあとへ立って見ると、白雲は旅情おさえがたきものがあります。

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