は、御存じのお方もございましょうが、江戸の外《はず》れの染井の伝中というところの、ある屋敷の中で、神尾主膳殿というお方のために、わたくしは生きながら深い井戸の底へ投げ込まれてしまいました。その時に、わたくしは懸命になって、まだ死ぬまい、ここでは死ねない、死にたくないともがきましたが、その甲斐もなく、井戸の底へ投げ込まれてしまいました。その時に、死なねばならぬことは当然すぎるほど当然でしたけれど、不思議にわたくしは死にませんでした。井戸へ落されるまでは、死ぬことをいやがって、車井戸にしがみついて、力限りに泣き叫びましたが、いよいよ井戸の中へ落された時に、私は泣かないで、かえって歓びました」

         九十八

「その後とても、現在、わたくしほどの者がこうして、ここまで生きてこられたということが、物の不思議でございます。わたくしのようなものでも、この世に生かして置いてやろうとの、お力があればこそ、こうして生きておられるのでございます。よし、わたくし自身といたしましては、こんな無智薄信の不自由な身が、この娑婆《しゃば》の中に、足あとほどの地をでも占めさせて置いていただくことが、この
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