いて断わって帰してしまった時分に、どこからともなく旅姿の七兵衛が現われて来ました。
ここにまた不思議なことの一つは、いつも七兵衛の苦手であったムク犬が、最初から神妙に一行について来たが、今ここで不意に七兵衛が姿を現わしても、吠《ほ》えかかることをしませんでした。
温容に七兵衛の面《おもて》を笠の下から見ただけで、その後は眠るが如くおとなしくなっていることです。このことは、ほかの人にとっては、気のつかないことでしたが、七兵衛にとっては一時《いっとき》、力抜けのするほど案外のことでありました。
ムク犬が吠えない代りに、ちょうどこの前後に、駕籠の中の郁太郎が不安の叫びを立てたものです。
「与八さん、与八さん、与八さんはいないのかい、与八さん」
いまさら思い出したように、与八の名を呼びかけ、数え年四つになった郁太郎が、突き出されたように駕籠の外へ出てしまいました。そうして前後の人を見渡したけれども、ついに自分の叫びかけている人の姿が、どこにも見えないことを知ると、
「与八さん、与八さん」
覚束《おぼつか》ない足どりで、西に向って――つまり、自分たちが立ち出て来た方へ向って走りはじめま
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