」
お松は与八の言うことに眼を円くしてしまいました。それは、一にも、二にも、十にも、百にも、今まで自分というものの提言に反《そむ》いたことのない与八が、今、自分の口からこういうことを言い出した以上は、到底、翻すことができるものでないということを、直覚してしまったからです。
それは、頑固《がんこ》で、片意地で言い出したのと違い、この人が、この際、こんなことを言いだしたのは、もうよくよくの深い信心か、決心から、多年に※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1−92−88]醸《うんじょう》されていたのだから、容易なものではないと、お松がそれに圧倒されたから、ほとんどあとを言い出すことすらできなくなってしまったのです。
けれども、お松としては、この際、どうしても、与八のこの決心を翻えさせねばならない、と思いました。
与八ひとりだけを残して、自分たちがすべてこの生活を移すということは、情に於ても、理に於ても、忍べないことだと思いました。そこで、暫く途方に暮れていたお松が、別の方面から与八を説きつけにかかりました。
「そんなことを言ったって、与八さん、そりゃ無理なことですよ、どうして、ひとりで日
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