、兵馬が再びこの芸妓《げいしゃ》の面《かお》を見直さないわけにゆきません。
送れと言うから、行きがかり上、送ってやらねばなるまい、広くもあらぬ高山の土地、たとえ今は焼け出されて、立退先になっているにしてからが、知れたもの――帰りがけの駄賃――にもならないが、まあこうなっては退引《のっぴき》ならないと観念したものの信州松本と聞いて呆《あき》れました。
「ね、信州の松本まで送って下さらない」
呆れながら兵馬が、
「松本の何というところだ」
「松本の浅間のお湯ってのがあるでしょう、あそこよ。だが待って下さい、うっかり行こうものなら、その松本もあぶないことよ、網を張ってあるところへ、わざわざひっかかりに行くようなものだから、もう少し考えさせて下さいな、そうそう、では、同じ信濃ですけれども、もっと山奥の、中房の湯、あそこへ行きましょう、中房ならば、誰にもわかりっこなし」
「うむ」
「もし、その中房で見つかった時には、お江戸へ連れて行って頂戴な」
「ああ」
「どうしました」
「ああ、お前はここにいたのか」
「ここにいたとおっしゃるのは?」
「お前は松本から中房へ行って、また中房を出たはずだが…
前へ
次へ
全323ページ中204ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング