流動へと移った旅程のあわただしさでしょう。昨夜の火事の前なども、うつらうつらとその夢幻の境に引き入れられようとして、引き戻されたのではあるまいか。
今は、しばらくその時が与えられた。空想の幻像によって、窮居の無聊《ぶりょう》を救うの術を覚えたことの応用は、この辺だと心得たものでもないでしょうが、肱に枕をすると、眼を眼中に向けて、想いを雲煙の境に飛ばしました。しかし、幻想といえども、境遇と離れては成り立たないものと見えて、竜之助の夢うつつは、昨夜来の出来事と、そうして自分にかしずいているお雪ちゃんの面影《おもかげ》の外には、出でることができませんでした。
あれから、夜の白むまでの半夜を、この狭いところに明かし合って、眼がさめた時の、お雪ちゃんの言葉が、
「先生、お寒くはございませんでした?」
と、こういうのです。
寒くないかと、見舞を言ったお雪ちゃんその人が、かえって寒さに顫《ふる》えている面影を、竜之助はありありと見ました。
寝巻一着のほかに、なんにも無くて、自分を顧みるよりも先に、人の安否のために奔走したお雪ちゃんの最も好意ある狼狽《ろうばい》を、竜之助といえども充分見て取っているのでしょう。
自分はあの際にも、できるだけの身ごしらえはして来ているから、寒くはない。寒いといっても知れたものだが、お雪ちゃんは、あれから間もなく夜明けではあったものの、その間、寝入ったようなふりをしていたが、まんじりともしなかったことを、竜之助は知っていなければならぬはず。
三十一
竜之助も、あの子にだけは、どう考えても悪意を持つ気にはなれないらしい。
お雪ちゃんという子を、竜之助は、どんなように想像しているか。女というものについては、お豊である限りのほかの女は、竜之助の肉眼での女というものは無いのです。
どのみち、女というものの運命も、他の生物の運命と同じことに殺してしまうか、殺されてしまうのが落ちだ。
竜之助は、お雪ちゃんを可愛ゆいと思わないことはない。可愛ゆい子だと、身に沁《し》みる時に、また一方に極めて冷たいものがあって、こいつもまた、今まで、経来ったあらゆる女と同じ運命の目を見せてやる時が来るのかな――とあざ笑うこともある。
いつのまにか、自分が愛すれば愛するほど、自分が愛せられれば愛せられるほど、そのものの運命のほどを、じっと最後まで見詰めてやりたくなる癖がある。
生かすこと、殺すことのほかには、竜之助の天地は無いのだ。
たとえば、現在はどうあろうとも、運命がこの二つに過ぎないことは、見え過ぎるほど見えている。愛着がしばしの戯れと思われて、彼は何人の捧ぐる好意にも、感謝というものを持つことができない。
それでも、お雪ちゃんその人には、感謝はできないながら、悪意を持つことまではできないで、そうしておのずからその残虐なる遊戯性が、この子の前では、萌《きざ》して来ないことを不思議と言えるでしょう。
いかなる女をも、最後は、必ず自分が手にかけて殺してしまう――こういう自覚せざるの自信に充ちている竜之助も、まだお雪ちゃんを殺そうとはしていないらしい。結局はそこへ行かねばならないことを怖れているのは、弁信法師ひとりで、お雪ちゃん自身も、一向それに気のついている様子はない。
弁信に対しては、竜之助は、ほとんど無関心でいることのできる、これも一つの不思議な存在でありました。
神尾主膳は、弁信の存在を、この世のなにものよりも憎み、嫌い、憤り、その名を聞いてさえも、渾身《こんしん》の憎悪に震え上り、ひとたびその声を聞き、その姿を見た時は、打ち殺し、打ちひしぎ、裂き砕いて、この世での存在はもとより、想像をさえも掻《か》き消したがるほどの関心を持っているのに、竜之助は、あのおしゃべり坊主に対しては、水の如き執着をしか持っておりません。
甲州の月見寺で、むらむらと彼を斬りたくなり、その身代りに卒塔婆《そとば》を斬った途端に、その執着が水の如く、身内を流れ去って以来、彼の存在を、あまり気にしているということを知りません。
そのほか、考えてみれば、自分は、自分に降りかかって来る者のほかには、不思議に執着を持たない身であることを感ぜずにはおられません。むらむらと自分の身に湧き出す、如何《いかん》ともすべからざる力に、ふと外物がひっかかった時が最後――そのほかには、自分は憎むべくして憎むべき人を知らない、殺すべくして殺すべき人を知らない。
こんなことを、うつらうつらと考えている時に、外で声がしました、
「先生、喜んで下さい、久助さんがいましたよ、見つかりましたよ」
さも嬉しそうな呼び声、焼跡へ出かけて行ったお雪ちゃんが帰って来たのです。
その、たまらぬほど嬉しそうな声によって見ると、お雪ちゃんは、久助を焼
前へ
次へ
全81ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング