、手渡してやらなければならぬ、という義務に責められているようなわけでした。
つまり、あの娘の、この品に対する愛着と、失望を救う目的のみならず、自分の良心と、名誉のためにかけても……それは、あの娘が、里へ命からがら逃げついたとする、彼女の目には、雲突くばかりの追剥が、行手にわだかまっていたから、と言うよりほかの報告はないにきまっている、そうなると、村人は黙ってはいまい、捨てては置けまい、在郷軍人や、青年団が総出になって、出動するような形勢になることはわかりきっている。
瘠《や》せても枯れても田山白雲が、追剥泥棒の嫌疑を、無関心ではおられない。
その証明のためにも、こちらから進んで行かねばならない――これらの事情がついに、白雲をして、不知不識《しらずしらず》、「勿来《なこそ》」の関の関門を、前に向って突破させてしまいました。
十六
関をくだって、関北の村へ出ると、果して白雲の予想した通りでした。
村人が総出で、ただいま、勿来の古関のあとへ、雲突くばかりの怪盗が現われて、若い娘を脅《おどか》して、その後生大事な髪飾りを強奪した、そういう奴を許してはおけない、ということで、それが勿来の関に向って押しかけて来るところへ、白雲が、この被害品を小腋《こわき》にして、悠々《ゆうゆう》として下りて来たから、血気盛んな村の者が、かえって出鼻をくじかれているのを、
「怪しいものじゃありませんよ、君たち、拙者は絵師です、旅の絵かきでござる、安心しなさい」
と、まず安心させておいてから、白雲は、
「野州|足利《あしかが》の田山白雲という絵かきが拙者です、君たちの心配する目的物はこれだろう」
と言って、例の香箱を目先に突きつけ、
「は、は、は、娘さんが少々、狼狽《ろうばい》したのだ、よく、あらためて、当人に返しておやりなさい」
村人は、突きつけられた香箱を前にして、目をパチクリやっているが、この男が、自分たちの予期した悪漢ではない、ということだけの合点《がてん》は行ったらしい。
「でも、絵師のようじゃねえぜ」
とささやく者がある。
「浪人者のようだなあ」
という批評も聞える。
「二本差した絵かきなんていうものがあるべえか」
「浪人者じゃねえかのう」
「絵かきじゃねえぞ」
「浪人者だア」
「浪人者」
浪人者の名は、ある時には、追剥よりもよくないものになっている。
風体《ふうてい》の怪しい浪人者と見たらば、引捕えることも、尋常に捕まえきれぬ時は、斬り殺すことも許されている。一応、諒解したらしいが、再応の雲行きが怪しくなったと見て取った白雲は、
「いや、君たち、絵かきだから二本差して悪いというわけはないのだ、拙者は絵を描いているが、野州の足利でこれでも士分のはしくれの者なのだ、浪人者じゃないのだ。それ見給え、この写生帖というものを見るがよい、香取、鹿島から、霞ヶ浦から、鹿島洋《かしまなだ》からこっちの風景をこの通り写して来ている、今もそれ、平潟《ひらかた》の村から勿来の関、有名な古来の名所だろう、それを、この通り図面にうつし取ったのだ」
と言って、ワザワザ彼等の前に、その写生帖をひろげて見せました。
言語、文章を以てしては理解せしめ能《あた》わざるものを、絵画が容易《たやす》く説明する。田山白雲は、いつもこの手でもってあらゆる難関を突破する。
彼はその風采に於て、剣客とされ、浪士とされ、或いは風雲の機をうかがうたぐいの間諜とあやまられるのに適している。そこで頭から、自分は絵師の田山白雲ということを名乗って、そうしてなお聴き容れられざる潮合いを見て、この写生帖を提出すれば、万事はたちどころに解決するのを例とする。今も、
「なるほど、浪人者にゃあ、こうは描けねえなあ」
という諒解についで、
「やあ、九面《ここつら》の太平が小屋を描いてあらあ。九面の太平が小屋、あん嬶《かか》あが、餓鬼をしょって立ってやがら」
「あ、あ、あ、太平が小屋か、お国っかかあが餓鬼を背負って立ってるとこが、うまくけえてありゃがらあ――ふーん」
諒解が、やがて感歎に変り、
「うめえもんだなあ、こりゃお関所の松の木んところだぜ――そっくりだあ、あ、こりゃ山庄の土蔵だよ」
「なに、お前様、小名浜《おなはま》の網旦那んとこんござらっしゃるのかね――みんな、御粗末にするなよ、網旦那んとこのお客様だあよ」
と、村の長老がこう叫び出したので、空気がまた一変しました。
十七
田山白雲は、長老の一人から、
「で、お前様、絵をかきに上州の方から、わざわざ、こっちへござらっしゃったのかい、そうして、これから、どっちの方さ、ござらっしゃるだかえ」
とたずねられて、
「今日はひとつ小名浜というところまで行って、そこで、小谷半十郎というのへ、紹介されて
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