お喋り坊主は、我にかえると、まず自分の助けられたことの感謝よりも、助けた人の果報を祝福することが、先に出たもののようです。

         九十七

「黒部平の品右衛門爺さんは、そうして、わたくしを背中にしょって、雪をかきわけて、こちらへ連れて来て下さいました。品右衛門爺さんの背中で、わたくしは、眼に見えない母の背に負われて、故郷へ帰るような気持が致しました。よくお助け下さいましたとも、ナゼ助けて下さいましたとも、わたくしは、一言も、品右衛門爺さんに挨拶をしなかった儀でございますから、ドコへこの爺さんがわたくしを連れて行って下さるつもりか、そんなことは一向にお尋ねをいたしませんで、母の背中にスヤスヤと眠るような安らかさで、品右衛門爺さんの行くところへ行くことを甘んじておりました。もとより、その時は、この人が黒部平の品右衛門爺さんであることだの、駕籠の渡しで三十七年間、岩魚を釣っていたことだの、そんなことを知っておりますはずもなし、どちらのどなたでございますか、とお尋ねいたしたこともございません。ただ、わたくしを雪の中から掘り出して、背に負っておいでになる、そのお方が猟師でおいでなさること、猟師と申しますと、失礼ながら殺生を業となさる、仏果の上から申しますと、あわれ果敢《はか》ない御稼業《ごかぎょう》と申すよりほかはござりませぬ。しかし、この場合に、この爺さんが、わたくしに対してなさることは、殺生ではないと信じておりまする故に、わたくしは安んじて、お爺さんの背中に一切を任せてまいりました。そう致しますると、かなりの時間の後に、この品右衛門爺さんが、ある所までわたくしを連れてまいりまして、そのあるところで、お手やわらかに、わたくしを背中から卸して下さいまして、そうして温かい炉辺の熊の皮の上に坐らせて下さいました。わたくしはそのして下さる通りになっておりましたが、そこはこの白骨ではございません、最初は猟師さんの住居《すまい》かと思いましたら、そうでもございませんでした。猟師さんのほかに、わたくしを労《いたわ》って下さる方があることを知って、これはその方のお住居だなとさとりました。そのお方は、やはり温かい心と、物とを以て、わたくしをいたわり下さる上に、温かいお粥《かゆ》を煮て、疲労した身に、過分にならないほどに心づかいをして、その温かいお粥を、わたくしに食べさせて下さいました。あとで承ると、ここは乗鞍岳の麓で、鐙小屋《あぶみごや》という小屋の中でございました。わたくしに温かい心と、温かいお粥を下されたのは、この鐙小屋の中で行をしておいでになる神主さんだと承りました。猟師さんと言い、神主さんと言い、まことに親切極まるお方でございましたけれど、わたくしは、このお二方に向っても、強《し》いて再生の恩を謝するというようなことを申しませんでした。申しませんでも、おわかりになることでございますが、わたくしといたしましては、今更それを繰返す心にはなれないのが不思議でございます。口幅ったい申し分ではございますけれども、生死《いきしに》ということは、旅路の一夜泊りのようなものでございますから、生きていることが必ずしも歓喜ではなく、死にゆくことが必ずしも絶望なのではございません。いつも申し上げることですが、いかに生きようとしてもがいても、生き得られない時には生きられません、いかに死のうとして焦《あせ》っても、死を与えられる時までは、人間というものは決して死ねるものではございません。わたくしは、このごろになって、ようやくこの悟りがわかりました。その事の最初は、皆様のうちには、御存じのお方もございましょうが、江戸の外《はず》れの染井の伝中というところの、ある屋敷の中で、神尾主膳殿というお方のために、わたくしは生きながら深い井戸の底へ投げ込まれてしまいました。その時に、わたくしは懸命になって、まだ死ぬまい、ここでは死ねない、死にたくないともがきましたが、その甲斐もなく、井戸の底へ投げ込まれてしまいました。その時に、死なねばならぬことは当然すぎるほど当然でしたけれど、不思議にわたくしは死にませんでした。井戸へ落されるまでは、死ぬことをいやがって、車井戸にしがみついて、力限りに泣き叫びましたが、いよいよ井戸の中へ落された時に、私は泣かないで、かえって歓びました」

         九十八

「その後とても、現在、わたくしほどの者がこうして、ここまで生きてこられたということが、物の不思議でございます。わたくしのようなものでも、この世に生かして置いてやろうとの、お力があればこそ、こうして生きておられるのでございます。よし、わたくし自身といたしましては、こんな無智薄信の不自由な身が、この娑婆《しゃば》の中に、足あとほどの地をでも占めさせて置いていただくことが、この
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