かっている。なにも自分を引留めて置きたいために、しめし合わせて、色仕掛のなんのというたくらみになっていないことは確かだが、なんにしてもこの二つが、左右から、当分自分を動けないものにしているらしいことは、争えない。
兵馬は寝返りを打ちながら、こんなことを考えているうちに、廊下がミシと鳴るのを感じました。
五十九
「ああ」
そこで、兵馬は胸が燃えるような熱さを感じました。
ああ、それ、今も気にかかるその人が、今晩という今晩、ここまで忍んで来られたのだ。ああ、正直のところ、自分はこの誘惑に勝てるだろうか。
あの奥方――ではない、お部屋様、あの婦人がここへ入って来たら、どうしよう、声を出して恥をかかせるわけにもいくまい、そうかといって……
ああ、困った、絶体絶命、兵馬は、もう全身が熱くなって、ワナワナとふるえが来ているようです。
果して、ミシミシと廊下に音が続いてする、中の寝息をうかがっているものらしい、あ、障子の桟《さん》へ手をかけた。
どうしよう、この誘惑に勝てようか、勝てても勝てなくても、今は絶体絶命だ。こういう時に、兵馬はいつも堅くなってしまって、動きの取れないことがおかしいほどです。
兵馬には、来るものを取って食うだけの勇気はない。そうかといって、それを叱り誡《いまし》めて、恥をかかせて追い返すほどの非人情も、発揮ができない。
禅の心得とかなんとかいうものが、こんな時に、さっぱり役に立たないのは、かえって、なまじいにそれにひっかかるからだ――兵馬はある先賢が旅宿で、主婦から口説《くど》かれたのを平然として説得してかえしたことを思ってみたり、美人から抱きつかれて、それを枯木寒巌とかなんとか言って、このなまぐさ坊主め、と追ん出されてしまったことを考える。
突いていいのか、ひっぱり込んでいいのか、実際、禅だの、心法だのということを少し学んでいたために、かえってそれに迷う。
果して、隔ての襖《ふすま》が細目に開く。
ぜひなく兵馬は、ムックリと起き直って、蒲団《ふとん》の上に端坐しながら枕元の燈火《あかり》を掻《か》き立てました。
兵馬が燈心を掻き立てた途端のこと、その行燈《あんどん》の下から、ぬっと這《は》い寄った人の面《かお》、それとぴったり面を合わせた兵馬が、
「あ!」
と言いました。驚いたのは兵馬のみではなく、その行燈の下から這い寄った面の主も、同じように吃驚《びっくり》して、
「いけねえ!」
途端に早くも兵馬は、この者の利腕《ききうで》を取ろうとして、案外にもそれが、フワリとして手答えのないのに、ハッとしました。
これは双方の思惑違い、勘違いでした。
兵馬が行燈の下から見た面は、予想していたような人ではなく、全く見なれない月代《さかやき》のならずものめいた、色の生《なま》っ白《ちろ》い奴! その色の生っ白い小粋《こいき》がった方が認めたのは、やっぱり案外な若い男の侍でしたから、双方とも一時《いっとき》全く当てが外れて、度を失ったものです。
でも、兵馬は心得て、やにわに、その曲者の利腕を取って押さえようとして、再び案外に感じたことは、それにさっぱり手ごたえのないことで、つまり、この男は、手を引込めて、兵馬の打込みを外したのではなく、その利腕が、てんで[#「てんで」に傍点]存在していないのだということを、兵馬が覚りました。
右腕は無いのだ、それならばと、膝を立て直して抑えにかかった時、先方もさるものでした。
さっと、ひっくり返って、これは、ワザとひっくり返ったので、そのひっくり返った途端に、行燈を蹴飛ばして真暗にし、なお二の矢に、行燈の下から素早くさらった油壺を、兵馬のあたりをめがけて投げつけると、クルリと起き直って、廊下へ飛び出してしまいました。
勿論《もちろん》、こいつは、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵で、噂に聞いた新お代官の屋敷の、好き者のお部屋様に見参するつもりで来たのが、案外にも、宇津木兵馬の寝ているところでした。
六十
その素早い挙動には、さすがに兵馬も呆《あき》れるほどでした。
こいつ、本職だ!
直ちに刀を取って追いかけたが、庭へ逃げたということを知ると共に、自分は庭へ下りないで、道場へと進んで行きました。
道場には黒崎君が寝ている。
兵馬は静かに黒崎を起しました。そうして、いま、曲者が入ったことを告げ、但し単身潜入したもので、大体に於て、深いたくらみのある奴ではないから、騒がないがよろしい、強《し》いて陣屋の上下を動揺させるほどのこともあるまいから、君は起きて、屋敷の内部を警戒し給え、拙者は一廻り邸外を廻って見て来る、二人だけで検分してしまおう、騒がないがよいと言いました。
黒崎はそれを心得て、身仕度をしました
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