で、竜之助とお雪ちゃんは一夜を明かしたのです。
 夜が明けると、お雪ちゃんは竜之助に断わって、再び火事場へ出て行きました。
 昨晩《ゆうべ》は、近寄れなかったが、今朝は、もう火も鎮《しず》まってみれば、行けないことはない。第一に久助さんの行方《ゆくえ》――それから自分たちの荷物の安否、それから宿屋の主人に向って善後策の交渉――そんなことを、いちいちこれから切盛りをしなくてはならないと、雄々しくも心を決めて、寝巻一着を恥かしいとも思わず――恥かしいと思っても、この際、どうすることもできないのですから、そのままで、焼跡の方へ出かけて行ってしまいました。
 船の中に、ひとり残された竜之助は、肱《ひじ》を枕に横になると、天地の狭いことを感じません。
 このごろでは、よいことに、夢ではなく眼をつぶって、息を調えて沈黙している間に、さまざまのうつつの物を見ることです。曾《かつ》て見たことのある山水や、人物が、うつつとなって、沈思閉眼の境に現われて来て、甘美なる幻像に喜ばさるるの癖がつきました。
 これは、そうするつもりがなく、白骨の閑居のうちに、おのずから養われた佳癖ということができましょう。それは曾て自分が実見したことのある山水のみならず、人がさまざまに語り聞かす物語を、自分が閉眼して、いちいち絵に描いてみることができるようになったもので、白馬ヶ岳や、槍ヶ岳や、加賀の白山や、越中の立山が、みんな実物以外の想像となって、竜之助の眼底にありありとうつってくるのです。そうしてまたお雪ちゃんの話しぶりというものが、その想像を助けるのに最もふさわしいものでありました。
 白骨の炉辺閑話でも、そこに集まる冬籠《ふゆごも》りの人たちの風采《ふうさい》を、お雪ちゃんの話によって、いちいち想像に描いてみては、それらの人と共に語るような思いもするのです。時として、イヤなおばさんだの、仏頂寺弥助の一行だのといったようなのが、苦々しい幻像を現わすこともあるが、概して、自ら描いて見る風景と、人物とは、特殊な甘美なものがあって、自己陶酔には充分なのです。
 その幻像から来る自己陶酔を楽しむことができるようになった竜之助は、性格的にどれほど恵まれたかは知れないが、時間的には、たしかに、退屈ということを忘るるの術《すべ》を授けられたようなものです。
 平湯から、こちらでは、その機会の少なかったのは、沈静から
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