が置捨てられてあったのです。
 一切のものといううちに、その数々を挙げてみるよりは、その中から取り出し得たものは、この身体《からだ》と、この身についた寝巻一着だけ、という方がわかり易《やす》いでしょう。しかも、この寝巻は自分のものではありません、帯までが宿のものなのです。
 河原の真中へ来た時分に、盛んに燃えている自分たちの座敷のあたりを見ると、お雪ちゃんは急に恐ろしくなってしまいました。
 ああ、なんだって自分は、こんなに、はしたないのでしょう、せめてあの帯揚だけも、あの手文庫だけも、あの紙入だけも、立ち上る途端に、しっかりとここへ挟んで来ればよかったものを――命より大事なものは無いと言いながら、旅に出ては命同様の役目をする路用の一切を焼いてしまった、ほんとに明日からは、どうするのでしょう。
 久助さんは……久助さんは、どうしたろう、あの人は耳が少し遠いから、わたしがああ言って呼んであげたのがわかったかしら。わからなくても子供じゃなし、逃げ出せないはずはないが……
 お雪ちゃんは、ようやく、河原の中程へ来て、わが身のことと、人の身の安否を考えたが、どちらもたよりないことばっかり……でも、肝腎の目の見えない先生が、こうして御無事に……と思う、そればかりが心だのみでした。
「もう大丈夫ですねえ、先生」
 自己慰安を求めるもののように、こう言ったが、盛んに燃えさかる火の手が、河原の表面を、昼のようにかがやかすと、避難の者が、いずれもこちらへ、こちらへと走りかかるのを見て、またも不安の念に襲われました。

         二十八

 火に追われるのは怖れないにしても、人目に触れさせたくない心配はある。
 まもなく、川下の森のようになった柳の木蔭で、探し当てたのは、つなぎ捨てられた屋形船《やかたぶね》の一つです。夏になると、この宮川が屋形船に覆われて、花柳《かりゅう》の巷《ちまた》が川の上へ移される。今は誰も相手にする者のない捨小舟《すておぶね》。
 船の中をなおよく見ると、蓆《むしろ》や、ゴザが、丸く巻いて隅の方に積んである。お雪ちゃんは、その敷物をしいて、竜之助をその中に休ませました。そうして置いて言うことには、
「先生、わたしは、これから火事場の方へ行って参ります、久助さんの身の上も心配だし、もしかして、わたしの荷物を、宿の人が出してくれたかも知れません」
「行って
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