と思われる。
そうして、夢中に、ものの二町ほども走ったが、幸いに、何物も後を追い来《きた》る気色《けしき》がありませんから、そこで、安全圏内に入ったつもりで、歩調をゆるめてしまいました。ここへ来ると、行手に遠見の番所の火影《ほかげ》がボンヤリと見えている。万一の場合、大きな声を出しさえすれば、誰か番所から駈けつけてくれる。それでも間に合わない時は、殿様のお部屋に鉄砲がある――そんなような安心で、茂太郎はまた歌の人となりました。
[#ここから2字下げ]
チーカロンドン、ツアン
パッカロンドン、ツアン
[#ここで字下げ終わり]
と、口拍子を歩調に合わせて、
[#ここから2字下げ]
姐在房中《ツウザイワンチョン》
繍※[#「口+下」、25−3]繍花鞋※[#「口+下」、25−3]《シウリアンシウファヤイヤア》
忽聴門外《フラテンメンワイ》
算命先生《サンミンスヘンスエン》
叫了一声《キャウリャウイシン》
叫了一声《キャウリャウイシン》
[#ここで字下げ終わり]
と勢いよく唱え出して、
[#ここから2字下げ]
トデヤウ、パンテン
スヘンスエン
ニイツインゾオヤア
ヌネン、バズウ
ゴテ、スヘンスエン
ニイ、ツエテンジヤ
ニイ、ツエテンジヤ
[#ここで字下げ終わり]
茂太郎としては出鱈目《でたらめ》ですけれども、これは立派に支那の端唄《はうた》になっていました。
こんな出鱈目を器量いっぱいに歌いつづけた時に、茂太郎は行手の右の方の、こんもりと小高い丘の上に真黒に盛り上った森の中から、ポーッと火の手の上るのを見ました。
それは、狼煙《のろし》のように――風が無いものですから、思うさま高く伸びきって、のんのんと紅い色を天に向って流し出したのです。
「あれ、天神山で火が燃えた」
時ならぬ火である。一時は火事かと思ったが、火事ではない。お祭礼《まつり》でもないはずなのに、誰が、何の必要あって、あんなに火を燃やし出した?
茂太郎は、思いがけなく火の燃え出したのを、非常時として見るよりは、その火の色が特別に赤い色をしていることに、美しさを感じて、一時は見とれたように立ち尽しました。
火は、いよいよ盛んになって、やがてパチパチと竹のハネル音まで聞え出した時、茂太郎の唇の色が変って、
「あ、そうだ、マドロス君が焼き殺されてるんだぜ、あの火は……」
四
そこで
前へ
次へ
全162ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング