雲は笑止に思うくらいです――やがて、酒杯をすすめて後、主人が改めて、
「児島先生、この勿来の関の方に、先生の御賛《ごさん》をいただきたいものでございます、いかがでございましょう、田山先生」
と網旦那の主人が言いました。
「結構ですな」
と白雲が如才なく同意を示すと、主人は手を打って人を呼び、筆墨の用意にとりかからせたが、それと聞いて、いやとも言わず、黙諾の形を示していた児島なにがし[#「なにがし」に傍点]といわれた武士は、
「いいですか、せっかくの名作を汚してもかまいませんか」
「どうぞ御遠慮なく」
と白雲が、やはり如才なく言いました。
「では、ひとつ」
用意せられた筆に墨を含ませて、白雲の描いた「勿来の関」の上の空白を睨《にら》んでいる目つきを見て、白雲が、こざかしい振舞かなと思いました。
このぐらいの年配で、たとえ旅の貧乏絵師とはいえ、いやしくも他人の描いたものへ、賛をと望まれても、一応は辞退するのが礼であろうのに、いっこう、辞退の色もなく引受けて、少しもハニかむ色なく、筆をぶっつけようとする度胸だが、盲蛇《めくらへび》だか、それを白雲は、小癪《こしゃく》な奴だという気がしないでもありません。よし、まあ、やらせてみろ、下手なことをしやがったら、その分では置くまい、白雲の手並を見せてやる、それからでよい。
若造――やってみろ、という気構えで傍らから白雲が悠然として、酒杯をふくんで見ているうちに、筆を取って、画面を見ていた右の若い武士は、ズブリと硯田《けんでん》にそれを打込んで、白雲の揮毫《きごう》の真中へ、雲煙を飛ばせてしまいました。
「あっ!」
と白雲が酒杯を落そうとしたのは、憤慨のためではありません。
その竜蛇を走らすが如き奔放なる筆勢――或いは意気に打たれたとでもいうのでしょう。
十九
まず、書の巧拙や、筆法の吟味は論外として、その覇気《はき》遊逸《ゆういつ》して、筆端竜蛇を走らす体《てい》の勢いに、さすがの白雲が、すっかり気を呑まれてしまった形です。
そうして、白眼で見ていた眼が躍《おど》り出し、危うく酒杯を取落そうとして見ていると、そんなことを眼中に置かず、さっさと、走らせた筆のあとを、文字通りに読んでみると、
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平潟湾、勿来関(平潟の湾、勿来の関)
石路索廻巌洞間(石路|索《もと》め廻《めぐ》る巌
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