いるから、泊ろうと思うのだ」
「え、小名浜の網旦那んとこですか」
「いや、小谷というのだ」
「そりゃ、お前様、網旦那んとこだ」
「とにかく、そこへ尋ねて行くのだ」
「それじゃ、網旦那のお客様だ。みんな、このお絵かきさまは、網旦那んちのお客だから失礼のねえようにしなよ。直《なお》しゅう[#「しゅう」に傍点]に次郎公、おめえ、小名浜まで、このお絵かき様をお送り申しな」
 こうして、彼は質朴なる村人の諒解と、好意を得て、その夜は関北の村に一泊し、翌日は小名浜の小谷家まで無事に送り届けられて、そこで、鹿島洋で、測量のさむらいがくれた紹介状が立派に物を言い、このあたりでは、ほとんど領主でもあるらしき尊重ぶりの、いわゆる網旦那の屋敷の客となることを得たという次第です。
 その家について見ると田山白雲は、いよいよ以て、この辺に於ける網旦那なるものの勢力が、勢力に於ても、富に於ても、鹿島以東の浦々に並ぶ者のない威勢を見せていることを知り、そうしてまた、ここの当主が聞えたる蔵幅家であることを知り、なお人物と書画と両方面に、相当の鑑識を備えていると見えて、田舎廻《いなかまわ》りの旅絵師を名乗って来た白雲を、無下に扱うということなく、少しく画談を試みているうちに、所蔵の書画を、それからそれと取り出して見せるのですが、白雲は、その数に於て驚かされないわけにはゆきませんでした。
 次から次と運ばせる軸物のなかには、駄物もあるが、また相応に見られるものもないではない。どうして、こんなところへ、こんな作物が舞い込んだかと思われるほど、支那の元《げん》明《みん》あたりの名家へ持って行きたい軸物も、時おり現われて来ることに感心しました。
 そのうち、ことに白雲の眼を驚かしたのは竹林《ちくりん》の図です。
「これは蛇足《だそく》ですな」
「そうです」
「うむ――」
と言って、白雲が眼をすましたのを見て、主人が敬服しました。
 数ある画幅のうちで、主人にとって、この蛇足は、一二を争う秘蔵のものであるらしい。しかしながら、この辺鄙《へんぴ》にお客に来るほどのもので、この主人の自負に投合する者が極めて少ない。蛇足を蛇足として見るだけの明のない奴等を、主人が笑ったり、ひとり腹を立ったりしているところへ、たまたま白雲が来て投合し、この蛇足に向って、蛇足だけの扱いをしたのですから、主人が悦びました。
 白雲として
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