から熱を伝え、実際的に信頼のできる根拠があるだけに、七兵衛のロマン味をも刺戟すること一方ではないと見え、老巧な七兵衛が、海を説かれて、少年のような興味を植えつけられて、勇みをなした有様が、瞭々としてわかります。
この話がきまると七兵衛は、早速旅装をととのえて洲崎を出発しましたが、その馬力のかかった足許の躍《おど》り方までが、いつもより違った若やかさを感ずるのは、不思議と思われるばかりです。
今までの七兵衛は、千里を突破する早い足を持っていたのには相違ないが、そのゆくては、いつでも真暗でした。こうして乗りかけるところは結局、三尺高い木の上に過ぎない。いかに早く走ったからとて、いつかは、自分はそこまで追いつめられて、いやおうなしに、その台の上へ、この首をのっけてしまわねばならぬ。
いつ出でても、ゆくては夕暮である。
どんなキラキラした天日も、七兵衛が走りながら仰ぐと暗くなって見え、自分はそれを観念しつつ、幼少より今日に至るまで、明るい世界を全く暗く歩み、生涯、この暗黒から救われる由なき運命のほどを、自ら哀れみもし、自らあきらめもしていたのが――時として、旅の半ばに、前後をのぞみ見て、※[#「さんずい+玄」、第3水準1−86−62]然《げんぜん》として流るる涙を払ったこともないではなかったのです。
子供の時分、名主様に舌を捲かせ、貴様は日吉丸になるか、石川五右衛門になるかと呆《あき》れさせたことのある自分も、よく通れば、日吉丸ほどでなくとも、五右衛門の出来そこないにはならなかったに相違ない……それがかくして今、こうして暗く歩んでいる。
それを考えて、七兵衛のいただく天地に、かつて明るいことがなかったのですが、今日は、全く別な世界を歩みはじめた気持です。
この世界には、この足を必要としないで歩み得る世界がある。それは海だ!
そこは、自分の特長は全く無用視されるが、自分の身に安心が予約されるではないか。
船というものは全く別の世界になり得る!
十二
田山白雲が勿来《なこそ》の関《せき》に着いたのは、黄昏時《たそがれどき》でありました。
勿来の関を見てから、小名浜《おなはま》で泊るつもりで、平潟《ひらかた》の町を出て、九面《ここつら》から僅かの登りをのぼって、古関《こせき》のあとへ立って見ると、白雲は旅情おさえがたきものがあります。
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