世にとっては、いかに御迷惑な儀であり、わたくしにとりましては、軽からぬ苦痛の生涯でありましょうとも、生かし置き下さる間は死ねませぬ。死ねない間は、わたくしは、わたくしとして、与えられたこの世の中の一部分の仕事が、まだ尽きない証拠ではございますまいか。言葉を換えて申しますと、わたくしの身が、前世に於て犯した罪悪の未《いま》だ消えざるが故にこそ、わたくしはこの世に置かれて、その罪業をつぐなうのつとめを致さねばなりませぬ。ああ、昨日は雪の中で凍えて死なんとし、今日はこうして、のんびりと温泉につかって骨身をあたためる、あれも不幸ではなし、これも幸福として狎《な》るる由なきことでございます。きのうの不幸は、わが過去の業報であり、きょうの幸福は、衆生《しゅじょう》の作り置かるる善根の果報であることを思いますると、一切がみんなひとごとではございません。さあ、もうこのくらいにして上りましょう。お湯から出たら、この炉辺へ来てお茶をあがれ、と北原さんというお方がおっしゃって下さいましたから、これから、わたくしはあの炉辺へ行って、お茶を招ばれるつもりでございます。この温泉場には、今年は珍しく、多数の冬籠《ふゆごも》りのお客があるそうでございまして、あの炉辺がことのほか賑《にぎ》わう、弁信、お前も珍しい新顔だから、ここへ来て旅路の面白い話をしろと、皆様からもすすめられましたから、わたくしもこれからお茶に招ばれながら、皆様のお話も承ったり、それからわたくしの話も申し上げたいと思いますが、わたくしは、どうも御存じの通りの癖でございまして、話をはじめると長うございますから、時と場合をおもんぱかりまして、皆様の御迷惑になるような場合には、慎んで控えていようとは心がけているのでございますが、本来、わたくしのこちらへ志して参りましたのは、どうも、あのお雪ちゃんの声で、しきりにわたくしに向って呼びかける声が、わたくしの耳に響いてなりませぬから、その声に引かされて、こちらへ参ったような次第でございますが、参って見ますると、ここにお雪ちゃんがいないということは――それは、大野ヶ原へ来る前から、ふっと勘でわかりました、お雪ちゃんがいない以上は、わたくしのこの地に来るべき理由も、とどまるべき因縁も、ないようなものでございますが、ここへ導かれたということ、そのことにまた因縁が無ければならないと存じました。これはわ
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