う。苟《いやしく》も祖先以来、徳川家の禄を食《は》んで、その旗下の一人として加えられて来た身であってみれば、忠義だの、崇拝だのという心が有っても無くても、ははあ、ここは「東照宮」であったな、と感じないわけにはゆかなかったのでしょう。
 家康という不世出の英雄があって、三百年の泰平があり、そのおかげで日本国の――少なくともこの江戸の繁昌があり、我々旗本の安泰と、驕慢《きょうまん》とが許されたのだ、その本尊様の霊を祀るところがここだ――
 主膳の頭巾に、知らず識《し》らず手がかかったのは、うつらうつらでもここまで来てみれば、さすがに素通りはできない――という習慣性に駆《か》られたようなものでしょう。それとも、敵に後ろを見せるのが癪だ、という反抗気分かも知れません。
「よしよし、鬼の念仏だ、久しぶりで東照権現に参詣して行っても、罰《ばち》は当るまい」
 こう思って、頭巾を外《はず》しながら東照宮の神前まで、神尾主膳が進んで行きました。
 この鋪石《しきいし》の上で、主膳はふと、さんざんに引裂かれた一つの御幣《ごへい》の落ちているのを認めました。
 その御幣も容易なものではない、重い由緒ある神前でなければ見られない御幣である。それが無残に引裂かれ、打砕かれて、あまつさえ、土足で蹂躙《じゅうりん》してある痕跡が充分です。
 合点《がてん》ゆかずと、なおも歩んで行くうちに、今度は、さんざんに砕かれた、光るものの破片を認め、それが鏡であることを知り、その鏡も尋常の品ではなく、やはり由緒深い神社の神前でなければ見られない性質のものであることを、直ちに認めました。
 なお、行くことしばらくにして、あろうことか、コテコテと人間の尾籠《びろう》な排泄物が、煙を立てている。
 主膳はムッとして、面をそむけて通り過ぎましたが、宮の前に来ると、そこにまた異様なものを認めないわけにはゆきません。
 人間の生首《なまくび》――といっても、幸いに肉身の生首ではなく、どこから何者が取り来《きた》ったのか、相当の木像の首が、三尺ばかり高い台の上に、厳然と置き据えられて、その傍らに捨札がある。
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逆賊  足利尊氏の首
同   弟 直義の首
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 主膳はムカムカとしました。
 その途端、後ろの方、社司の住居あたりで、甲高《かんだか》い人声がする、
「申し分があらば
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