か」
「しかし、それがまあ、今の世の一般の空気になっているのだから、逆《さか》らわないがよかろうと思う」
「でも、そんなわからず屋のおどかしに怖れてばかりいては、つけ上るようなことはございますまいか、一つ、御威光を見せておやりなすっちゃいかがですか」
七兵衛は、駒井の言うことを歯痒《はがゆ》いように思います。
こういう場合にこそ、空《から》でもなんでもいいから、大筒の一発もブッ放して見せてやれ、彼等のコケおどしは、一たまりもあるまいと思われるのに、目を驚かすばかりの精鋭な、船も、武器も持っておりながら、みすみすこんな威嚇に屈服して争わない駒井の殿様の態度を、七兵衛も歯痒いように思いました。
ところが駒井甚三郎は、内心に於ても激昂している様子はなく、かえって、七兵衛をなだめるような語気で、
「わしが、ここへ籠《こも》ったのは、江戸からも遠からず、周囲も静かで、何かと便宜があるからここを選んだまでのことだ、周囲がうるさくなった後、それと抗争したり、釈明したりしてまで、この地に執着しておらねばならぬ理由は少しも無いのだ。それに仕事の方も、ほぼ完成した。船は燃料の問題だけで、動かそうとすれば、今にも動くまでになっている。ホンの自衛の印《しるし》にこしらえた大砲も据えつけが終っている。今は船中生活の器具類と、食料品とを積みこめば、出帆に差支えないのだ。この上は乗組の人員と、目的地の針路だが、乗組員の方はほぼ予定がついている。この際、田山君が戻って来ないのは残念だが、香取鹿島までの旅だから、今日明日に戻って来るだろうと思う。あのマドロスは仕方のない奴だが、鍛え直せば役には立つのだ、お前の骨折りで、あのマドロスを暴徒の手から取戻してくれたのはいいことであった。そういうわけだから、この際、思い切って、船卸しをやってしまい、我々はこの地をできるだけ早く立去りたいのだが、それについて七兵衛殿、お前も希望《のぞみ》通り、この船に乗りますか」
とたずねられて七兵衛が、
「それは、願ってもない仕合せでございますが、私よりも、沢井にござる登様と、お松とを、ぜひお連れ下さいませ、それが叶いますならば、これから私が沢井へ走《は》せ戻って、登様をお連れ申してまいります」
「うむ」
「では、これから一ッ走り、登様のお迎えに行って参りましょう、そうして登様と、お松と、この七兵衛めをまで、このお船の
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