すが、海に向いた生田《いくた》の森が手薄でございます、早速、明日にも、あれへ柵をおかけになっておいた方が、安心でござります」
 七兵衛は、いんぎんにこう言って、駒井に進言をしてみましたが、駒井はそれを聞いて、頷《うなず》くだけで、
「たとえ黒幕があるにしても、おだてる奴があるにしてもだ、人気がこうなってはモウいかんな、斯様《かよう》な人気の中で、我々は安心して仕事をするわけにはゆかん。我々の仕事は、鉄条網を一方につくって、人民を敵視しながら、研究を続けて行かねばならん、という性質のものではないのだ。彼等はおだやかにあしらっても、威力を以てあしらってみても、どのみち、我々に対して、ああいう根本的の誤解が人気になった以上は、それを釈明するのは容易のことじゃない。不可能のことじゃないにしても、それを納得させる努力を、ほかで用いた方がよろしいから、結局――この地は、我々の方より一応退散した方が勝ちだ」

         十

 駒井甚三郎は、その時に矢文《やぶみ》の紙片を取って、七兵衛に読み聞かせました――
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「ソノ方事、江戸ヲ追放サレテ、当地ニ来タル仔細ハ、毛唐ニ渡リヲツケテ謀叛《むほん》ノ志アルコト分明ナリ、ヒソカニ軍艦ヲ製造シ大砲ヲ鋳造シテ毛唐ノ侵入ヲ待チ、事ヲ挙ゲテ、ワガ神国ヲ禽獣《きんじう》ノ徒ニ向ツテ奴隷トナサンコトヲ企ツ、言語道断ノ次第ナリ、シカノミナラズ、毛唐ノ無頼漢ヲ雇ヒテ、善良ナル村人ノ財物ヲ剽掠《へうりやく》セシメ、婦女ヲ犯サシメ、切支丹ヲ流行シ、禽獣ノ行ヒヲススメテ改メシメザルハ、一ニソノ方ノ責ナリ、ヨツテ近日中、汝トソノ一味ノ者ニ向ツテ天誅ヲ加ヘ、世ノミセシメトナスベシ、覚悟セヨ」
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 こういう文句が、かなり達筆に認められてあるのを、駒井は読み且つ見せて、七兵衛に向って言いました、
「ごらんなさい、文章は体をなさないものだが、文字は、なかなかよく書いてあります、この辺の浦の漁師たちなどに書ける文字ではないのです」
「神主様かなにか、お書きになったのでございますか」
「神主様と限ったものではあるまいが、こういう思想を煽《あお》って、無智の人民をけしかける者が志士といって、今の世には到るところに充満している」
「怪《け》しからんことじゃありませんか、そんな奴をひとつ、御退治なすっちゃあ、いかがでございます
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