のか、ゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]とでもいうのか、それとも腰巻か、ふんどしか、何というのが本名か知らないが、兵馬は、その緋縮緬のずるこけ落ちた代物を、さんざんに蹴飛ばしておいて、その場を立去りました。
六十九
その翌朝になると、まず兵馬は、昨晩、高山の市中に変ったことはなかったか、その風聞を聞きたい気持に迫られました。
黒崎君に聞いてみると、黒崎君もあれから、邸《やしき》の内は無事過ぎるほど無事で、あんまり無事だから寝込んでしまって、いま、眼がさめたばっかりというような始末。そのほか、家の子郎党、内外の出入りの者からも、何も変った事件が、出来《しゅったい》していたというような報告に接することができませんでした。でも、昨晩のことが、なんとなく気にかかりもする。遠くもあらぬところだから、朝の稽古前に兵馬は邸を飛び出して、昨晩のあの高札場のところまで行ってみました。
昨晩の夜の色を、今朝の朝の色に塗り換えただけで、何の異状はありません。問題の代物はと見れば、これも昨晩、自分が蹴飛ばし、蹴飛ばして置いた通り、まだ、誰人の目にも触れないで、素直に高札場のうしろに、かがまっている。
兵馬はそれを見て、再びうんざりした思いをしながら、焼跡を通って、宮川べりを一巡して陣屋へ戻って来ましたが、その途中も、それとなく、街頭を注意して見たけれども、なんら心にさしはさむべきものを認めることができませんでした。
同じ朝、相応院にいたお雪ちゃん――これも昨晩よく寝られたから、今朝は早く起きました。
そうして、何かと朝の食膳の仕度にとりかかりましたが、水を汲もうとして手桶をさげて外へ出ると、例によって、眼下には高山の町、宮川の流れ、右手が遠く開けて、そうして雪をかぶる山々。
ああ、加賀の白山《はくさん》!
お雪ちゃんは手桶を置いて、その連々たる雪の白山山脈の姿に見とれてしまいました。
どうしたのか、お雪ちゃんはこのごろ、加賀の白山というものに引きつけられている。
「白山の名は雪にぞありける」という古歌が好きになって、もう口癖のように念頭に上って来る。「白山の名は雪にぞありける」というのが、ちょうど自分の呼び名とぴったりするから、この古歌が好きになり、同時に白山そのものが、あこがれの的になったのかも知れません。
それのみではありますまい、夢に入る白山の山
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