で立ちすくみになったが、兵馬としては、驚いて狼狽《ろうばい》するのみではいられません、直ちにこの怪しい奴を引捕えてみなければならぬ必要に迫られました。そこで、
「待て!」
と、自分も宙を飛んで、それに追い縋《すが》ったものです。
「お赦《ゆる》し下さい、怪しいものではござりませんで」
「怪しいものでなければ、なぜ逃げる」
「意気地の無い人間でございますから逃げやんした、おゆるし」
「赦すも赦さんもない、お前が怪しいものでさえなければ、逃げる必要もないのだ、こちらも、お前が逃げさえせねば捕えはせぬのだ」
 兵馬は瞬く間に追いついて、この怪しいものを膝の下にねじ伏せて動かすまいとしたが、同時に気のついたのは、こいつがグショ濡れであることです。
「おゆるし下さい」
「いったい、お前は何者だ」
「私は屑屋でございます」
「屑屋?」
「はい、紙屑買いでございます」
「紙屑買い――商売とはいえ、時刻が早過ぎる、それにお前の身体《からだ》はぐしょ濡れだな」
「ちょっと、早出する用事がございまして、これへ通りかかりますると、あなた様方が、ここにお見えでございましたから、避《よ》けようとして溝《どぶ》へ落ちましたので、遠慮を致して隠れておりました」
「そんなに遠慮することはあるまいに」
と言いながら、兵馬は篤《とく》と見ると、頭から着物そっくりぐしょ濡れになってはいるが、御膳籠《ごぜんかご》は放さない。どう見ても、紙屑買い以外の何者であるとも思われません。なるほど、早立ちをしてここへ来ると、吾々の物言いを見て、物蔭に避けていたのが、痴話が長いので、堪え兼ねて飛び出したのかも知らん。そうだと思えば、そうも受取れる。それにしても、怪しいといえば怪しいとも思われる。
 そこで、兵馬は抑えながら、懐中へ手を当ててみて、
「何も持っておらんな」
「この通り、仕入れの財布だけでございます」
「そうか」
 憮然《ぶぜん》として、兵馬も、この者を放ちやるほかはないと決めた時、一方の柳の木の方で女が、
「おや、あなたはどなた?」
と言ったのが、兵馬の耳には聞えませんでした。

         六十七

 兵馬が、紙屑買いを糺問《きゅうもん》していることの瞬間、後ろの女のことは暫く忘れておりました。
 忘れて置いても安心というところまで、介抱が届いていたからではあるが、この怪しの者を、最初から屑屋なら
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