「どうれ」
と、隠形《おんぎょう》の印も結びもすっかり崩して、まず最初から、飲みたくて堪らなかった水を飲もうとして、井戸の方へそろそろと歩んで行くと、その井戸側から、人が一人、ひょろひょろと這《は》い出して来たには、驚かないわけにはゆきません。以前の、御用提灯、打割羽織《ぶっさきばおり》には、さほど驚かなかったがんりき[#「がんりき」に傍点]の百が、井戸側の蔭から、ひょろひょろと這い出して来たよた[#「よた」に傍点]者に、まったく毒気を抜かれてしまいました。
 だが、幸いにして、こちらも多少の心得があるから、見咎《みとが》められるまでには至らなかったが、もう一息違って、ぶっつけに井戸へ走ってしまおうものなら、大変――このよた[#「よた」に傍点]者と鉢合せをするところであった。
 いいところで、またごまかして、今度は高札場の石垣の横に潜み直していると、井戸側から出たよた[#「よた」に傍点]者は、がんりき[#「がんりき」に傍点]ありとは全く知らないらしく、這い出して来て、前後左右を見廻し、ホッと一息ついたのは、つまりこの点に於ては御同病――いましがた、立って行った御用提灯、打割羽織の目を忍ぶために、自分が柳の木の蔭で平べったくなっていると共に、このよた[#「よた」に傍点]者は、井戸側の蔭に這いつくばって、その目を避けていたのだ。
 つまり自分の隠形は立業であるのに、このよた[#「よた」に傍点]者は寝業で一本取ったというわけなのだ。二人とも、やり過してしまってから業を崩し、ホッと息をついて、のさばり出たのは同じこと。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が石垣の蔭からよく見ていると、手拭を畳んで頭にのせ、丸い御膳籠《ごぜんかご》を肩に引っかけた紙屑買《かみくずか》いです。
 紙屑買いだといって無論こういう場合には油断ができないことで、なお、よく注意して見ると――がんりき[#「がんりき」に傍点]は商売柄で、夜目、遠目が利《き》く――手にがんどう[#「がんどう」に傍点]提灯《ぢょうちん》を持っているところなどは、いよいよ怪しい。
 そこで、ともかくも、こいつのあとをつけてみなければならないことだと思いました。一応、その行動を見届けてやる必要があると思いました。
 そうして、暫くそのあとをつけてみた後に、がんりき[#「がんりき」に傍点]が唖然《あぜん》として、自分をせせら笑って
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