めに、あとを濁して来たというわけではないから、申しわけをしさえすれば、話はわかってもらえる。
 あの冬籠《ふゆごも》りの人たちは、いずれも一風変った人たちではあったけれども、なかでも北原さんがいちばん気軽で、わたしとは気が合っていた。口は悪いけれども、全く親切気のあった人。
 あの北原さんに便りをしてみようかしら……近くの他人といえば、あの人よりほかはない。
 甲州までは大へんな道のり、白骨はほんの十里内外――久助さんに、面をかぶってひとつ白骨へ行ってもらおう、そうして北原さんに事情を打明ければ、この急場を凌《しの》ぐに最もよい知恵を貸して下さるに相違ない――そうだ、では北原さんに手紙を書きましょう。
 お雪ちゃんは、こんな気持になって、明日、お寺へ落着いたなら、真先に北原さんへ手紙を書こうと決心し、それから、
「先生、こんなことなら、あなたを白骨にお置き申した方がようござんしたねえ」
と、所在なさそうな、転寝《うたたね》の竜之助を見て、なぐさめの言葉をかけました。
「こんな世話場も、面白いものだ」
「ほんとうに、思いがけない世話場を出してしまいました、これも、あのイヤなおばさんの祟《たた》りかも知れません」
とお雪ちゃんが、なにげなく返事をして、かえって自分が変な気になりました。
 世話場は世話場でいいが、なにもイヤなおばさんの名前なんぞを、ここに引合いに出す由はないのに、口を辷《すべ》らして、自分でイヤな思いをし、人にイヤな思いをさせることを悔んでみました。
「そうかも知れないね、あのおばさんの魂魄《こんぱく》が、ついて廻っているのかも知れない」
「もう、よしましょう、あんなイヤなおばさんのこと」
「どうしたものか、昨晩、わたしはあのおばさんの夢を見た」
「もう、よしましょう」
「いまさら、そんな薄情なことを言わなくてもいいじゃないか。白骨にいた時は、お前もあんなになついたくせに、ここはあのおばさんの故郷ということだ、せめて、ここへ来たからは、あのおばさんの魂魄をとむらってやる気におなりなさい」
「でも、わたし、なんだか頭が変で、どうしてもそんな気になれません、あのおばさんのこと、思い出しても気が変になりそうです、忘れていればよかったのに」
「それが忘れられないというのも因縁《いんねん》で、どうも白骨から、あのおばさんの魂魄が、あとになり先になって、我々について
前へ 次へ
全162ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング