は事重大と見て、あわてて道庵を演壇から引き下ろしにかかりました。つづいて、二人、三人、やがて総立ちとなって、道庵の処分にとりかかったので、風雲が急になって、道庵の身が危ない。
 事態が全く不穏に陥った時、この騒動が、意外な出来事に転嫁されるようになったのは、道庵にとっては全く助け船でありました。
「熊が出た! 熊だ! 危ない! 熊だ!」
という叫喚が聴衆の後ろの方から起って、道庵|膺懲《ようちょう》のために総立ちになった聴衆に裏切りが出たもののように、まずその声のする方からなだれを打ったのは、思いがけない出来事です。
 先を争うて逃げ迷い、わめき叫ぶ有様は、只事ではありません。
「熊だ――」
「熊だナモ――」
 その大混乱を突破して、なるほど、小さくはあるが、まだ子供ではあるが、一頭の熊がこの席へ野放しに闖入《ちんにゅう》して来たことは、疑うべくもありません。
 人間が驚くが故に熊も驚きます。人間がつかまえようとするから、熊は逃げ惑うのでしょう。道庵によって風雲を捲き起したこの席が、熊の子によって蹂躙《じゅうりん》されてしまっています。
 今や、道庵の暴言、失言問題はカッ飛んでしまい、猛獣の闖入は、集まるものの生命問題でした。逃げ迷うものの狼狽は、見るも悲惨の至りです。
 だが、熊としては、人間に危害を加えに来たものでもなく、危害を加えた形跡もありません。
 何かの拍子で、檻を放れたのが、気紛《きまぐ》れにこの席へ姿を現わしたまでのようです。それを人間が狼狽するから、熊もまた狼狽しているものに相違ない。
 熊は、盛んに群衆の中を走っているのは、群衆を追わんがためでなくして、その逃げ口を見出そうとしているものに相違ありません。しかるに人は、それに逃げ口を与えないから、自分の逃げ口も失ってしまい、押し合い、へし合いの混乱で、悲鳴をあげているもののうちには、熊によって害を受けずして、人間によって踏み敷かれつつあるものが多数のようです。
 かくて、熊はさんざんに荒《あば》れ、人はさんざんに蹂躙し合って、名状すべからざる混乱状態を現わしているうちに、道庵の姿も、いつのまにか演壇から没して、逃げたのか、つまみ出されたのか、それとも群衆に踏みつぶされてしまったのか、影も、形も、見えないという有様です。
「騒ぐな、騒ぐな、どうもしやしねえよ、おとなしい熊だよ、みんなが騒ぐから驚くんだ、どうもしやしねえ」
 群衆の後ろにあって、かく呼びかけつつ混乱をなだめんとする声は、まさしく宇治山田の米友の声であります。

         五十

 江戸の方面に於ては、道庵牽制運動のために、安直先生と、金茶金十郎とを特派するために、オール折助連が盛んな送別会を催して、その行を壮《さか》んにすることになりました。
 会場は、湯島の千本屋《せんぼんや》。
 当日の正客は、安直と、金十郎。
 安直先生も、今日は、いつものマアちゃんとは違うぞという気位で、羽織、袴に威儀をただして、相生町《あいおいちょう》の碁所《ごどころ》へでも出かけるような装いに、逆薤《ぎゃくらっきょう》の面《かお》を振り立て、大気取りに気取って正面の席につきました。
 相客の金茶金十郎は、大たぶさに浅黄服――押しも押されもせぬお国侍の粋を現わしたものです。それで、当日の幹事はプロ亀でありました。プロ亀は盛んにお太鼓を叩いて、安直の提灯《ちょうちん》を持ち、安直が武芸十八般にわたり、囲碁将棋の類《たぐい》まで通ぜざるところなく、当代、道庵の右に出でる者は、この安直を措《お》いてほかには無いということを、ことごとく紹介しました。
 斯様《かよう》に讃められても安直は、ぎゃくらっきょう[#「ぎゃくらっきょう」に傍点]をうなだれて、あまり多くの口数を利《き》かずに控えて、あっぱれ折助連の代表だけの貫禄のあるところを見せましたが、金十郎は、おれも負けてはいないぞという気になって、二本差を二本ながら抜いてしまい、これを振り廻して、これが左青眼だとか、右八双だとかいって、型をつかって見せましたから、会衆がみんな大喜びで、
「なるほど、金十郎氏は強い、武術の型を心得ていることでは日本一だ、金十郎氏が、安直先生の傍へ控えていてくれるので、全く心強い」
 そのうちに、無礼講となって、オール折助連の芸尽しです。
 やがて、芸者が出て来て、皿小鉢を叩きはじめました。
 その中でも、老妓の糸助に、皿八というものが、正客の安直と、金十郎の前へ現われ、皿八がドンブリを叩き、糸助が、すががきを弾いて、
「おきんちゃ金十郎、コレきんちゃ金十郎」
と皿八がうたいながら、コンコンカラカラコンコンカラカラと、丼《どんぶり》の音をさせたものだから、さっきからいい気持になっていた金十郎が嬉しくてたまらず、やにわに、すっぱだかになって踊り
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