リとこう変ってしまったのには、並みいる神妙な聴衆が、あっ! と、あいた口がふさがりませんでした。
 もうこうなっては、こっちのもので、謙遜や辞令なんぞは、フッ飛んでしまいました。
「いいかね、そんなようなあんばいで、なるほど、この尾張の国は英雄の本場には違えねえが、それはとっくの昔のことで、その後になって、古人に恥じねえほどの英雄がどこから出たえ、出たらお目にかかろうじゃねえか。それのみならず、尾張の国は、それほどの英雄を自分の土地から出しながら、それを尊重する所以《ゆえん》を知らねえ。だから、あとから、あとから、ボンクラが出て来るのは争えねえのさ。嘘だと思うなら、尾張の中村へ行ってごらん、どこに、豊臣太閤という日本一の英雄を生んだ名残《なご》りが残っているんだエ。ああして、草ぽっけにして、抛《ほう》りっぱなしにして置いてさ、他国者のこの道庵風情に――十八文の道庵だよ、この十八文風情にお祭りをしてもらって、それを土地の者が珍しがるという有様じゃ、お話にならねえじゃねえか。そのくれえだから、おめえ、近頃は英雄なんていうやつが、この界隈から薬にしたくも出なくなったんだ。地形は昔に変らないんだよ、山川《さんせん》開けて気象|頓《とみ》に雄大なるこの濃尾の天地は、信長や、秀吉のうまれた時と大して変らねえのに、人間というやつが腑抜けになって、英雄豪傑の種切れだ。たまにおめえ、大塩平八郎だの、細井平洲だのという奴が出て来れば、みんな他国者に取られてしまう。なんと情けねえじゃねえか、ひとごととは思えねえよ」
 こういうまくし方では、半畳を飛ばす隙もなかったと見えます。
 一座があいた口が塞がらずに、道庵の面《かお》ばかりパチクリと見つめている体《てい》は、笑止千万です。
 それを道庵は委細かまわずに、ぶっつづけました。
「英雄豪傑なんぞは、乱世の瘤《こぶ》のようなものだから、そんなものは厄介者で、いらねえと言えばそれまでだが、国に人物が出なければ、その国の精が抜けてしまった証拠なんだぜ。気の毒ながら、尾張の国も精が抜けたね、山川は昔に変らねえが、人間の方は、どうしてそう急に精分が抜けたのか――それにはまた一つの原因がある――」
 この辺へ来て、はじめて道庵も、いくらか平静に返り、昂奮からさめたように、調子もいくぶん穏かになって、歴史を典拠として論じはじめました。
 それは、尾州家は最初のうちは英主が出たが、いけなくなったのは五代|継友《つぐとも》あたりからのこと。それは例の徳川八代将軍の継嗣問題《あとつぎもんだい》で、当然、入って将軍となるべく予想していた尾州家が、紀州の吉宗のためにしてやられ、それから自棄《やけ》となって、折助政治をやり出した、それがいけないということを、道庵は婉曲《えんきょく》に歴史を引いて論じてきました。
 将軍職を紀州に取られてから、継友が自棄となり、放縦となり、幕府に対しての不満が、消極的に事毎に爆発し、ついに幕府は間者を侍妾として送り、継友を刺殺せしめたとの説がある――継友が夭死《わかじに》して、宗春の時になると、吉宗の勤倹政治に反抗するために、あらゆる華奢惰弱の風を奨励した時から、いよいよ精分が抜けてしまった。もう、そうなっては、英雄なんぞは出ろといったって、こんなところへ出て来やしねえ。出て来るものは、女郎屋と、酒場と、踊りと、お祭礼《まつり》と、夜遊びと、乱痴気だけのものだ。
 まあそれでも、本家の徳川にまだ脈があったから、尾張だけが腑抜けになっても、亡びはしなかったがね――もうそれからは、ぬけ殻のようなものさ……
 この辺まで道庵にたわごとを述べさせていた聴衆も、「ぬけ殻のようなものさ」と言われた時に憤然として、もう許せない、という色が現われました。

         四十九

 はじめは神妙に聴き、中頃少し調子が変だなと思いながら、お愛嬌に聞き流していたが、ようやく進むに従って、義理にも、我慢にも、許せない気色を、ここの聴衆が現わしたのは無理もないことです。
 おや、酔ってらっしゃるんだな――と思って見たが、酔っているにしても、容易ならぬ暴言である。名古屋に人間無きかの如くコキ下ろすのはいいとしても、ここの城主、御三家の一なる御代々をとらえて、噛んで吐き出すようなる悪態が口をついて来たものだから、老巧なのが咳払いをしたぐらいでは追附かず、
「こいつは途方もない」
「馬鹿!」
「気狂《きちが》いだっせ――」
 場内ようやく騒然として、掴《つか》みかかる勢いを為したものが現われ出したのは、それはまさに、そうあるべきことで、温厚なる医者と、学生を中心とした席であればこそ、ここまでこらえて来たようなものです。
 道庵の暴言は、まことに容易のならぬものであるが、一方から言えば、司会者の責任でもあるのです。司会者
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