そうして、この夜は、落着いて、ぐっすりと休むことができました。
 だが、お雪ちゃんに限らず、人というものは、生きている以上は、周囲が穏かならば、自分の心の中が動き出すし、自分の心がやっと落着いたかと見れば、何かまた周囲で煩わしいことが、大きかれ小さかれ、そのいずれかの翻蕩《ほんとう》の中に生きているようなものですから、せっかく、静かなお雪ちゃんの夢が、また夜中に破れ来《きた》ったということは、ぜひもないことかもしれません。
 それはまず、犬の盛んに吠え出したことによって破れていると、次に夥《おびただ》しい人のわめき[#「わめき」に傍点]声が、つい目と鼻のところらしい人家の中から起り出して来たことで、
「何だろう、もう時刻も夜中を過ぎていようのに……」
 お雪ちゃんが、寝床の中で、やや長いこと聞き耳を立てている間に、その人家の罵り声はいよいよ高くなり、全く只事ではないと思わせられました。
 それのみか、今まで、家の中でばかり騒いでいると聞えたその声が、今は室外へ溢《あふ》れ出して来たものです。そうすると、ワッシ、ワッシと何か担いで来るような模様で、それも河原へ飛び出して、川を渡って、お雪ちゃんの泊っている、この座敷の直ぐ下のところあたりへ、押しかけてくるらしいから、何はともあれ、もう床の中で聞流しにしているわけにはゆきません。
「お祭のお神輿様か知ら、御祭礼があったようにもないが、おかしいねえ」
 お雪ちゃんは、寝巻のまま立って、雨戸へ手をかけて無雑作に引きあけてみた途端に、
「あっ」
と言って、眼も口も打たれて、開くことのできなくなったのは、濛々《もうもう》として外から捲き込んだ烟《けむり》でした。

         二十九

 この辺で、名古屋で大持て[#「大持て」に傍点]のために有頂天《うちょうてん》になった頭の上へ、したたかに冷水をあびせられた道庵先生の近況にうつりましょう。
 あの時の水かぶりで、危うく陸沈をまぬかれたが、先生の鼻息すこしも異状なく、宿へ帰ってつぎたしをして休みながら、宇治山田の米友のいないことなんぞも、一向お気がつかれませんでした。
 先生は更に明日からの日程を、夢みながら……なお有頂天《うちょうてん》で、その得意さ加減、とどまるところを知りませんでしたが、こうして泰平楽《たいへいらく》に酔いきっている時、江戸で、その本城を衝《つ》かれて
前へ 次へ
全82ページ中46ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング