をもなつき従わせるほどの聖人であるとも考えてはおりません。
 米友のこの当惑を別にして、宿の大勢の者はようやくにして、この熊の子を取抑えて抱き上げると共に、米友に向い、
「お騒がせして全く恐れ入りました、つきまして、なおこのうえ恐れ入りますが、どうかそのお敷物をひとつ……」
「この敷物……この皮をかえ?」
「ええ、左様でございます」
「この敷物を持って行くのかえ?」
 米友にとっては、今まで自分の体温の幾分を分ち与えたこの敷物、自分のものではないから、よこせといえばやらないとは言えないが、せっかくあたためて寝てるものを、持って行かなくってもよかりそうなものだとの、いささかの不平もないではありません。
 その気色《けしき》を見て取ったのか、番頭のようなものが、こう言って申しわけをしました、
「実はその、お敷物の熊の皮は、この子供の親でございまして、それがふとした怪我で亡くなりましたものですから、その皮を剥がして置きますと、争われないことに、この小熊めが、母の皮をよく知っておりまして、これが無いと眠れませんものでございますから、宵のうちも、これを檻《おり》の中へ入れてやろうと存じましたが、あなた様がこの上によっくおよっておいでになりますから、お起し申すもなんで、つい、そのままに致して置きましたらこの通り、檻を破って這《は》い出し、母親の敷皮を慕ってまいりまして、あなた様に飛んだ御迷惑をかけましたような次第で……こちらへお夜具をのべさせて置きましたから、どうぞ、あれへ――その敷皮はひとつ、この子熊めに、お遣《つか》わし下さいませ」
「なあーんだ」
 米友がここでもまた、呆気《あっけ》に取られてしまいました。自分になついて来たと思ったのは、飛んだお門違いの己惚《うぬぼれ》――問題は熊の皮だ。
 だが、死せる親の皮を慕うて忘れざる子熊の情愛に至って、おのずから考えさせられずにはおられないものがあるようです。

         三十四

 子熊をつれて行かれて、しばし茫然としていた米友が、急に声を立てて叫びました、
「先生! 先生! おいらの先生」
 彼は襖《ふすま》の中を見込んでこう言うと共に、ガバと立ち上ったのは、この時に至って、はじめて意識が全く明瞭になったのです。
 そこで、つむじの如く、ここまでの行程が展開してみると、ああ、それそれ、それから、あれ――わが尊敬する道
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