、名古屋大根の水ッぽいところを、一口も賞翫《しょうがん》したことがねえんでございます、宮重大根《みやしげだいこん》の太った白いところの風味は、また格別だってえ話じゃありませんか。ああ涎《よだれ》が……」
「たわけ者!」
 五十嵐から小突きまわされて、がんりき[#「がんりき」に傍点]が、
「へ、へ、へ、旦那方は女の事と言いますてえと、よく、がんりき[#「がんりき」に傍点]を小突き廻したりなんぞなさるが、失礼ながら、旦那方だって聖人様ではござんすまい、昨晩も熱田の宿で聞いていりゃあ、ずいぶん、隅には置けねえお話を手放しでなさりやす……曲亭の文にも、人ノ家婦ニ姦淫《かんいん》スルコト他邦ニモアリトイエドモ、コノ地最モ甚《はなは》ダシ、とあるとか、名古屋ノ女、顔色ハ美ナルモ腰ハ大イニ太シ、とかなんとか、名古屋の女のこってりした風味をそれとなく、がんりき[#「がんりき」に傍点]の前でにおわして下さるなんぞはいけませんよ、お城の金の鯱を見せてけしかけなさるよりも、まだよっぽど罪が深いんでござんすぜ」
 こんなふてくされを言いながら、二度目の目つぶしを用心して、がんりき[#「がんりき」に傍点]が、素早く身をかわしてしまう。

         九

 この晩、二の丸御殿の長局《ながつぼね》で、奥女中たちがかしましい。
 誰いうとなく、この名古屋城の城内と城下とを通じて、第一等の美人は、さあ、どなたでしょう――今晩ここで、その極《きわ》めをつけてしまおうではありませんか。
 ようござんしょう、至極賛成でございますね。ごらんなさい、雨が降って参りましたよ、あつらえ向きじゃありませんか、雨夜《あまよ》の品さだめ――
 雨は、この時にはじめて降り出したのではありません、前津小林《まえつこばやし》の方から降り出して来て、宵の口から、もう御深井《みふかい》の大堀をぬらしているのです。
 そうですね、いつぞやも御天守の初重《しょじゅう》で、お宿直《とのい》の方々が、その品さだめで鶏《とり》が啼《な》いてしまったそうです。今晩は夜が明けてもかまいませんから、その極《きわ》めをつけておいて、後日このことでは、誰にも口を開かせないようにしようではありませんか。
「賛成、賛成、大賛成ですね」
 そこで、奥女中たちの選挙がはじまる。
 城内と城下とを通じての美しいほうでの第一人者――という名題《なだい》にはなっているが、ここでは、どうしても城下は眼中に置かれません。
 城下の町人のうちでも、それといえば誰も頷《うなず》くほどの者がいくらもあるに相違ないが、ここでは勢い、どうしても城内の、上は家老格から、下は軽輩の家族のみに限られるようになって、選定の標準が偏してくるのは、是非もないことでしょう。
 つまり、最初は、名古屋城の城内はもとより、城下町|外《はず》れに到るまで、家格と、経歴とを論ぜず、美[#「美」に傍点]の一点張りで、普通選挙を行うつもりだったのでしょうが、おのずから眼界の限られている人たちの選挙ですから、城内の、それも自分たちのほとんど身の廻りの範囲にだけしか、取材が及ばないのも、やむを得ないことでしょう。
 権田原《ごんだわら》の奥方は、美人でいらっしゃるには相違ないが、権があり過ぎて親しみがない。村松のお姫様は、行末立派なものにおなりなさるに相違ないが、お年が十五ではねえ――鉄砲頭磯谷矢右衛門殿の女房は、廓《くるわ》にもないという噂《うわさ》ですけれど、少し下品じゃありませんか。お船方の綾居殿はキリリとしておいでなさるが、額つきが横から見るといけませんよ。お旗奉行の御内儀は、お色が黒い。お色の黒いのが悪いとは言わないけれど、浅黒いのにも、とてもイキなのがありますけれど、第一等の標準に置くには、やっぱり、色の白いということを条件に置かなければなりませんわね――そういえば、あの平井殿のお娘御も、小麦肌でいらっしゃる――丸ぼちゃと、瓜実《うりざね》と、どちらを取りましょう。つやつやした髪の毛では、あの塩川の奥様が第一等だそうですけれど、生え際に難がありますわね。若宮八幡の宮司《ぐうじ》の娘さん、とてもすっきりしているそうですが、お侠《きゃん》で、人見知りをしないそうです。大林寺の裏方は、もうちょっと背が高くなければいけません……
「皆さん、無駄だから、そんなついえな評定はもうおやめなさい。美人の相場だって、そう一年や二年に変るものじゃありませんよ。聖人というものは千年に一度、天成の英雄と、美人とやらは、百年に一人か二人――しか生れるものじゃありませんから、相場はきまったものでございますよ」
 最初から、若い者たちの、やかましい品定めを冷淡にあしらって、何とも言わなかった中老の醒《さめ》ヶ井《い》が、はてしのない水かけ論に、我慢のなり難い言葉で、こう言い出
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