らまた一杯。
「あっ!」
ほとんど道庵をして、腰を立てるどころか、息をもつかせないほどの出来事で、札の辻の真中に腰を抜かし、醜態を遺憾なく曝した道庵は、盲《めくら》が壁を塗るような手つきをして、しばらくは、
「あっぷ、あっぷ」
と咽《むせ》ぶほかには、為《な》さん術《すべ》を知りませんでした。
そもそも、これは何という無惨なことでありましょう。例のプロ亀やデモ倉の、苦肉を以てのたくらみ、道庵を江戸からつけ覘《ねら》い、とうとうかかる下劣の手段で、闇討を決行してしまったものか、そうでなければ、先日の軽井沢の場合のように、道庵の親切が過ぎたための不慮の災難か、とにかく、こうして、前後左右から、つづけざまに水を浴びさせられた道庵は、一時、全く人心地を失い、腰が立てなくなって、陸上に溺没してしまったことですが、誰とてこれを助け起そうとする者もありません。
こういう場合に於ての宇治山田の米友――またしても危急存亡の場合に、英雄が居合わさない。
だが、この場合は全く軽井沢の場合と別に、一英雄が現われたとて如何《いかん》ともすべからざる事情であったのです。
それは、先生は知ってか知らずにか、とにかく、この場の水難は、これはなにも、江戸の敵《かたき》を名古屋で、という影武者があったわけでもなく、全く生命に危害を加えようという暴徒の所業でもなく、実は極めておめでたい慣例にひっかかってしまっただけのものです。
尾州の古俗に「水祝い」というのがある。上品なところでは婚礼が済むと、その家の門の前で、裏白《うらじろ》に水をつけて肩衣《かたぎぬ》へ少しずつ注ぎかける――それが身分に応じて、水の代りに「はぜ」を以てすることもある。夫人が奥で「水祝い」をする時には、金銀の砂子《すなご》を紙に包んで注ぐこともある。
小笠原家から出た水島家の伝書の中にも「水祝い」の礼物を記したのがある。
[#ここから1字下げ]
「手桶一対――白絵に鶴亀、松竹を書く、本式は手桶十二――それに髭籠《ひげこ》――摺古木《すりこぎ》――杓子《しゃくし》」
[#ここで字下げ終わり]
これによって考うれば、王朝時代から行われた「内火《うちび》とまりの寿《ことぶき》」という儀式と同じようなものであろうと言われる。
とにかく、この「水祝い」は二代光友の時までは行われ、家中奥向勤めの輩《やから》は、正月に御前で「水祝い」を為すことになっていた。そこで寛文十年には「水あび御定《おさだめ》の覚」というものがあって、婚礼の翌一年は申すに及ばず、たとえ三年五年過ぎても、御前に於て水あびを申すべき事。
なお、「もみ[#「もみ」に傍点]」を以て水にかえることもあったと見られるのは、同じ定めのうちに、
[#ここから1字下げ]
「もみ[#「もみ」に傍点]候事、上下衣服等もみ候ひて、人前出で難きほどの体《てい》成り候はば水むやくたるべくの事、一度もみ[#「もみ」に傍点]候上は水同然に候間、其上はもみ[#「もみ」に傍点]候事無用の事、附、無筋《すぢなき》儀を申立てもみ[#「もみ」に傍点]候儀無用たるべき事」
[#ここで字下げ終わり]
というのは、もみ[#「もみ」に傍点]はすなわち胴上げのことであろうと思われる。
ところが、元禄五年に至って、玉置市正なるものが千石の加増を賜わって、知行《ちぎょう》二千石となるや、その翌年正月、光友から市正に小姓衣を振舞われた。その時、奥勤めの者集まって、市正に「水祝い」をするか、もみ[#「もみ」に傍点]にするかという内評議を聞いて、市正迷惑のことに思い、主人に聞え上げたと見えて、その時から禁止せられたということになっている。
この禁令は元禄十七年(宝永元年)十二月二十八日ということで、その時の廻文に、
[#ここから1字下げ]
「手紙ヲ以テ申入候、近年婚礼相済ミ候者、水振廻ノ祝儀ヲ為シ、近所ノ者寄リ集マリ、作法|宜《よろ》シカラザル儀|之《こ》レ有ル段相聞エ候、以後右ノ様子ノ族《やから》、之レ有ルニ於テハ、急度《きっと》、御吟味ヲ遂ゲラルベキ旨、仰セ出サレ候、向後、相慎シミ、作法宜シキ様ニ仕《つかまつ》ルベキ旨、御老中仰セ渡サレ候条、其ノ意ヲ得ラルベク候、以上」
[#ここで字下げ終わり]
とあるによって見ると、この「水祝い」がかなり無作法なものになって、この慣例をいいことに、ずいぶん人に迷惑を及ぼす弊害が多かったものと見える。
それでも儀式としてはまだ相当に残されていたものと見え、万治三年の正月に、家中水あびせがあった時に、侍たちが光友の世嗣《よつぎ》綱誠に向って、慰みのためにこの水あびせを御覧になるように申し上げたが、世嗣はこれをことわって、
「侍たる者を裸にして、庭上を引きずり廻ることは、更に行儀にあらず、作法が闕《か》ける。水あびせの事重ねて申し出てはな
前へ
次へ
全129ページ中110ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング