いは漆黒《しっこく》の闇夜ででもあれば見落しということもあるが、曇って七ツ下りではあるが、晴天白日に、地球の全陸地を合わせて三倍したほどの面積を有する海というものを見落したということは、言いわけにならない。
正直な米友が、またまた擬議狼狽してしまいました。
「海のことは気がつかなかったねえ」
「そうですか。あなたは、どちらまでいらっしゃるの」
「名古屋へ帰《けえ》りてえと思うんだ」
「名古屋へ、では後へお戻りなさるんですね」
「え――」
ははあ、ここがいわゆる、鳴海のうちとすれば、名古屋へ行くのは後戻り……つまり自分というものは、宮の渡し場から、ふらふら歩きで鳴海へ来てしまったのだ。鳴海で止まったからよかったけれども、このまま方針をかえなければ江戸まで行く……たとえ一里半とはいえ、自分が逆行したことを、はじめてさとらしめられたようです。
この時、不意に屋根の上に声があって、
「あんた方、海が見たければ、千鳥塚までいらっしゃい、千鳥塚なら、海がよく見えますよ」
二人が驚いて、言い合わせたように屋根の上に眼を向けると、そこに一人の老人が首を出していました。
米友は、それを一目見て、ああこれだ、先年自分に温かい御飯と、温かい味噌汁をめぐんでくれた好人はこの爺さんに違いない、と見たけれども、爺さんの方では、そんなこと、とうに忘れてしまっているらしい。
「千鳥塚というのはどこですか」
女の人がたずね返すと、
「千鳥塚は天王山にありますがねえ、この道をこう行って、こう戻らっしゃると……」
千鳥塚の案内をかなり細かく親切にしてくれる。
「どうも有難う」
女の人が礼をいう。
「さあ――」
米友も、ここを立去らねばならぬ、千鳥塚とやらまで、この女性のお供をする義務は断じてない。
だが、この際、米友もなんだか、急に立去りたくない気持がする。
千鳥塚を聞いて、それへ行こうとする婦人も、なんとなく連れが欲しいようだ。
期せずして二人は、最初からの道連れででもあったように、すれつもつれつ……というのもおかしいが、後になり先になって、この寺の境内を出て行きました。
「お前さん、名古屋の人なの?」
「いいんにゃ、名古屋の人じゃねえ、暫く名古屋へ逗留《とうりゅう》してから、やがて京大阪の方へ行ってみるのだ」
「おや、それじゃやっぱり旅中なのね。わたしたちも明日は名古屋へ行って、暫く泊っているにはいるけれど、京大阪から田宮の方まで行くかも知れません」
「そうですか、じゃ、また途中で出逢《でくわ》すかも知れねえね」
「ええ、途中ばかりじゃない、明日は名古屋で、また逢えるかも知れません」
「旅は道づれ――と言ってな」
米友がこう言ってバツを合わせました。旅は道づれの意味が、米友にはよく徹底していなかった――が、この場合、やむを得ず、有合せを使用したものらしい。
「ええ、旅は道づれ次第のものですね」
それを婦人が、気安く、また意義ある取り方をしてくれたので、米友も助かり、
「姉《ねえ》さんも、一人じゃあるめえね、連れがお有んなさるんでしょう」
と、米友も如才なく合わせました。最初にはおかみさんと言い、今は姉さんと言う、この点米友も多少考えたらしいけれども、この姉さんは以前と変らず、
「ええ、幾人も連れはありますけれど、気の合わない時は、連れがあるより、一人の方がようござんすね」
「それもそうだろうが……男と違って女というやつは、めったに一人じゃあ旅ができなかろうから、かわいそうだ」
「そうでもありませんね、気が合わないくらいなら、やっぱり一人がようござんすよ」
「うむ――そうだなあ、一人だと、思うようにどこへでも行けるが、連れがあると、おたがいに世話が焼けたり、焼かれたり……」
その通り、道庵のお守役には、米友もかなり世話を焼かされているらしい。そこで身につまされたものと見える。
ところが、この風変りな一人歩きの女の人も、突然逢ったザッカケの男と、会話のやりとりをしているうちに、なんとなく自分も、身につまされてくるらしいものがある。
気が合うというものか知らん、偶然の会話が、二人を結んで行くようです。
こうして、摺《す》れつもつれつ、寺の門を出てしまったが、まだ米友も離れるとは言わず、女の人も、なるべく引きつけておきたいような気分で、話の糸を絶やさないようにつとめているとも見られます。
「姉さん、お前は、どこからおいでなさったのだエ」
米友がこう言いますと、女は、
「わたしは江戸から来ました」
「江戸ですか。おいらも江戸から来たには来たが、東海道を来なかった」
「甲州街道?」
「ううん、木曾街道だ」
「そうですか」
「姉さん、江戸はどこだエ」
こう聞かれて、女の人が、ちょっと返答にたじろいだようでしたが、
「江戸は本所です」
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