ぎると、うらむこともあるけれど、その時は、現実の時、現実の姿をまじめな心で見ている。
あちら向きに坐って、極めて静かに深夜の針を動かす女性を見る。
この衣を走る針の音までが、さやさやと聞える。
丸髷《まるまげ》に結って、よく似合う袷《あわせ》を着た、ほんとによい姿の女。
無惨なのは、肩から、背から、胸へかけてのあの血汐。
当人は、痛いとも、苦しいとも思ってはいないらしい。
針の動く音が、まことに静かだ。
兵馬は半身を起して、その後ろ姿をじっと見つめたけれども、女は振返らない。
落ちついていること。
「誰です」
兵馬が呼びかけた時、
「兵馬さん、お目ざめになって……」
はじめて、ふり返って、にっこりと笑ったのは、忘るるひまのない嫂《あによめ》のお浜でありました。
「嫂様《ねえさま》ではありませんか」
「そうよ」
「今頃、何をしていらっしゃるのです」
「子供のために綿入《わたいれ》を縫って上げようと思いましてね、追々寒くなりますからね」
「ははあ、そうでしたか」
兵馬は憮然《ぶぜん》としてしまいました。竜之助の前には幾度も現われるこの女、こうして兵馬の前に現われたのは今宵がはじめてか知らん。
お浜は、兵馬に対してこれだけの受答えをすると共に、また、あちら向きになって、一心に縫物を進めています。
「嫂《ねえ》さん、あなたは無事だったのですか」
「わたしが無事だか、どうだか、この肩から胸を見れば、わかるじゃありませんか」
「私も、最初から、それを気にしているのです、痛みはなさいませんか」
「それは古傷ですから、痛むには痛みますけれども、いまさら泣いたり、愚痴を言ったりしても仕方がありませんわ」
「嫂さん、あなたは竜之助に殺されたのですね」
「ええ、そうかも知れません、けれどもね、見ようによっては、わたしがあの人を殺したのです」
「悪縁というものでしょう。しかし、憎むべきものは憎まなければなりません。嫂さん、あなたがもしも竜之助の行方を御存じならば教えて下さい」
「それは、わたしがよく知っていますけれど、まあ、わたしが、あれから附きっきりのようにつきまとっているのかも知れません。けれど、兵馬さん、お前はあの人の在所《ありか》を知って、どうなさるつもりなの」
「どうするって、嫂さん、あなたとして、あんまりそれは歯痒《はがゆ》い尋ね方ではありませんか、私の兄のためにも、あなたのためにも、そのほか多くの人の魂が、彼のためにさいなまれていることはどれほどと思います。その恨みを晴らす役目は誰の仕事ですか、この年月、兵馬がこうして艱難辛苦《かんなんしんく》しているのも何のためだと思召《おぼしめ》す……」
「ホ、ホ、ホ、兵馬さん、それはわかっていますよ、お前さんが敵討をなさりたいために、今日までの苦労というは並大抵じゃありません」
「それが、わかっていらっしゃるなら、なぜ、そんな冷淡な口をお利きなさるのです、御存じならば早く、彼の在所《ありか》をお教え下さい、あなたに代って、私が、憎むべき彼を討取ります」
「けれども、ねえ、兵馬さん……私もあの人を善良な人だとは思っていません、憎い奴だと怨《うら》みながら殺されましたがね、今となってみると、やっぱり、あの人が好きなんですね」
「何を言うのです」
「憎めませんねえ」
「嗚呼《ああ》……」
兵馬は天を仰いで浩歎《こうたん》しますと、お浜は、いよいよ落ちついたもので、
「憎めません。憎めないのは、わたしばかりじゃない、兵馬さん、お前だって、本心からあの人を憎んじゃいないのでしょう」
「そんなはずがあるものですか、倶《とも》に天をいただかざる仇敵《きゅうてき》です」
「強《し》いて憎もうとしているんじゃありませんか」
「そんなはずはありません」
「許しておやりなさい、ね、兵馬さん」
「誰をです」
「お前さんの兄様《あにさま》をです」
「兄上を……」
「わたしも、このごろは、文之丞にも、ちょいちょい逢いますが、あの人は、今ではもう快く、わたしを許してくれていますよ、ほんとに、あの人はよい人です」
「嫂《ねえ》さん、あなたの言うことは、ちっともわかりません、敵も味方も、恩も恨みもめちゃくちゃです」
「敵も味方も無いじゃありませんか、わたしは、文之丞にも、竜之助にも許した女です」
「不貞な女!」
「不貞な女に相違ありませんから、不貞な女の受けるだけの責めは、みんな受けているつもりですよ」
「責めは受けたって、罪は消えない」
「消えませんとも。消えないから、こんなに古傷が痛むのです。わたしは今となって、文之丞も、竜之助も、どちらも罪がないと思います、どちらも行くべき当然の道を歩かせられたのですわ。そんなら、わたしひとりが悪者かというに、そうでもありません、わたしもまた、わたしの行く道を行かせ
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