はゆきません。
お雪ちゃんの方で、我々の来ることを待構えて、この一間を立て切って置いてくれたなら、水入らずの訪問談もできたろう。また病人に引合わせられるにしても、多少バツがよかったろうに、こうしてあけっぱなしにしているところでは、こちらが闖入《ちんにゅう》して来たようにもなり、お雪ちゃんとしても、改まっての紹介のとっつき場に、ちょっと迷うのも無理はないと思いました。
その時に、隣りの人が、意外にも気軽に首をあげて、
「これは皆様、よくおいでになりました、お雪がいろいろとお世話になります」
と後ろから、不意にあびせられたものですから、北原と、村田が、おびえたように振返って、
「いやどうも、我々こそ、お世話になりつづけ、失礼のしつづけでございます」
と挨拶を返しました。
そこで、今までおっくうにもあり、苦心にもしていた、謎の主の面《かお》を、ありありとして正面に見ることができました。
これは、明るい一間で見た机竜之助以外の何人でもありません。その人が尋常に物を言って、
「この通り眼が不自由なものでございますから、つい一つ宿におりましても、いっこう皆様にお近づきも致しません、失礼のみ致しておりますのに、お雪をはじめ連れの者が、絶えずお世話になっておりまする」
非常にとおりのよい、むしろ、品のよいと言ってもよい挨拶ぶりでしたから、北原も、村田も、決して悪い気持はしませんでした。
ただ、こちらまで迎えて挨拶に来ないのは、それは眼が不自由なせいで致し方がなく、今日までの隠退ぶりも、あらゆる病気のそれよりも、物を見る光を失われているという不自由のさせる業《わざ》だときめてみれば、当然のことだと同情を起さないわけにはゆきません。
案外と思わせられたところは少しもないことが、かえって案外であったかも知れないと思います。
「いやどう致しまして、お雪ちゃんが、この宿にいて下さることのために、どのくらい我々が救われているか知れやしません」
村田が少し新しい言葉づかいで、お雪ちゃんを讃美したのは、当然これは、この人の妹だ、この人はお雪ちゃんの兄さんだと、判断してしまったからです。
そこで竜之助が、また挨拶しますには、
「では、どうぞ、そちらの炬燵《こたつ》にゆっくりとお入り下さいまし、拙者はこのままで失礼を致します。こうして相離れていながら、お話を承りたいものでございます」
「左様ならば、我々も御免を蒙《こうむ》りまして。しかし、我々がこうしていい気になって、碇《いかり》を下ろしては、失礼はさて置き、御病気におさわりになるようなことはございますまいか」
再び念を押してみると、
「そんな御心配は御無用です、今日は大へん気分がよろしいので、お話相手が欲しいと思っていたところでございます、心置きなくごゆるりと」
「しからば、御免を蒙りまして」
この晴れやかな問答を聞いて、誰よりも胸を撫で下ろしたのは、お雪ちゃんです。
テレきった自分の立場が完全に救われたのみならず、この人が、こんなにまで、快く人を待遇する気になったのは、来客のために無上の快感であるのみならず、本人自身の病気というものが、全く調子をよみがえらせたものとみないわけにはゆきません。いずれもの意味に於て、お雪は春の光が急に障子の外にまばゆくさし込んで来たような、嬉しい感じでいっぱいになりました。
「さあ、どうぞ、ごゆるりと」
お雪は、欣々《いそいそ》として、炬燵《こたつ》の蒲団《ふとん》をかきあげたり、座蒲団をすすめたりしていると、北原は持参の蕎麦饅頭《そばまんじゅう》と、塩せんべいをお雪の前へ出し、
「おみやげです」
「恐れ入りました、たいそう遠いところからおいで下さいました上に、こんな過分なおみやげまでいただきまして……ホホホ」
とお雪ちゃんが愛嬌《あいきょう》を見せると、北原が、
「せっかく心にかけての訪問でございますから、何ぞと思いましたが何もございません、ホンの有合せ、これが私共の土地の名物だそうでございます」
そこでお雪は、お茶をいれにかかりました。
炬燵に落着いたその刹那《せつな》に、友禅の蒲団にからまっていた書物が一冊――ハラリと飛んで北原の右の膝下に落ちたものだから、北原は何気なく、これを拾い上げて見ると、
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「近世説美少年録」
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ははあ、宿のつれづれに読むものとしては、ありそうなもの。
北原も、ちょっと合《あい》の手《て》に、それを取り上げて見ると、北斎の挿絵が、キビキビと胸に迫るもののあるのを覚える。本文は読まずに飛ばして、紙を二三枚めくると、そこに折り目をつけ込んだところが一枚あります。
本来、読みさしの本には、有合せでも何でもいいから栞《しおり》を入れて置くべきもの。中身の本紙を折畳むことは、
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