な、文章家には、ずいぶん不足でもありましょうが、きんきゅうの用事ですと、百字書ければ大抵の要領は書けますからね」
「ねえ、北原さん」
お雪は何と思ったか、腰を落着けるようにして、籠の中の鳩を見ながら賢次の方にすりよって――
「北原さん、今わたしも思いついてよ、この鳩と、その文箱を、わたしにも貸して下さらない?」
「ええ、お貸し申しますとも、これだけあるのですからお望み次第です」
「どうぞお貸し下さい、わたしは、この鳩に頼んで上野原まで使に行ってもらいましょう、それともう一箇所は房州まで……」
「そいつはいけません、鳩というやつは、よく使をするにはしますけれども、無条件でどこへでも行くというわけにはいかないのです、ある特定の場所のほかへは、自由に使命を果しに行く能力がありません、そこが畜生の悲しさですね」
「でも人間と違って、羽で行くんですから、どこへでも行けそうなものですのにねえ」
「それが実際そうはいかないので、この籠の分は飛騨《ひだ》の平湯行、こちらのは信州の松本行、それから、これが尾張名古屋、三カ所に限ったものです。その三箇所も無事に行きつき得るかどうか、一応の試験を要しますね。平湯と、松本の分は、これは交通杜絶《こうつうとぜつ》の場合、万一を慮《おもんぱか》って、両方の宿の経営者が交換しておくものですから、この方は間違いありませんが、この尾張名古屋の分は、この秋帰った湯治の客が置きっぱなしにして行ったものですから、もう通信能力がぼけ[#「ぼけ」に傍点]てしまっているかも知れません」
「女は鳩より馬鹿だといいますからね」
「何をおっしゃるんです」
北原賢次が、呆《あき》れてしまって、お雪ちゃんの面《かお》を見直すと、お雪ちゃんは、
「それでもなんでもかまいませんから、わたしはそれを一つ拝借して、手紙を頼んでやってみましょう」
「それを御承知ならおやすい御用です。では、どちらにしてみますか、飛騨の平湯行に致しますか、それとも信州の松本、あるいは、やや遠く離れて尾張の名古屋」
「ええ、それでは尾張の名古屋行を一つ、お貸し下さいましな」
「よろしい、承知しましたが、しかし、お雪ちゃん、あなたは名古屋に、お知合いがありますか」
「いいえ、少しも知った人はありませんけれど、弁信さんに宛ててみましょう」
「弁信さんというのは?」
「あたしのお友達よ」
「へえ、あなたの
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