化粧にかかろうとする時分に、意外の警報が伝わりました。
「皆様のお部屋には、別に変ったことはございませんか」
当番の老卒が触れて廻ることが、少なからず朝の空気を動揺させる。
「何でございますか」
「今朝、その、お花畑の様子がどうも変だものですから、それを伝って行って見ますと、埋御門《うずみごもん》の塀の屋根の瓦が少しおかしいと思われました。といって階段《きぎはし》にも、締りにも、中台にも、異常があるのではございませんが、南波止場《みなみはとば》のところの猪牙《ちょき》に動きがあるようですから、引返して、御殿の方と、それからお花畑を通って迎涼閣まで調べて見ましたが、なんとなく怪しいと思われる点がないではありませんが、そうかといって、どこと一つ壊れた箇所は無し、何一つといって紛失したものもありませんが、長局《ながつぼね》の方はいかがですか、何か変った事はございませんでしたか、念のためにひとつお調べ下されたい」
宿直の老卒から、かく申し入れられて、それではという気になりました。しかし、単に駄目を押すだけのことで、異常があれば、こうして他から念を押されるまでもなく、おのおのの身辺に敏感なはずの奥女中たちが、とうに気のついていないはずはありません。ですから、ただせっかくの調査に対しての申しわけだけに、おのおの、持場持場、自分所有の品々について吟味をしてみたけれども、なんら怪しむべきものを発見しませんでしたから、初霜が代表して、
「御苦労さまでございます、長局の方には、一向に異常がございません。どこといっていたんだところもなければ、誰の一品といって、失せたものもございませんそうで……」
そこで断言して、ねぎらいかえそうとした時に、末のはしためが一人、後《おく》ればせに、ここへ駈けつけて、
「あの――昨晩、皆様が長押《なげし》へお貼りになった品定めの番附が見えないようでございますが……」
なるほど、昨晩あれほどの興味を集めた産物、長押へ掲げてあの席の止《とど》めをさし、そうして置いて一同が揃って寝に就いたはず。
昨晩のうち、あれに手をつけた者がないとすれば、今朝に至って、誰か気を利《き》かして剥《は》がしておいたものか。とにかく、事はたった一枚と二枚の紙のことではあるけれど、この場合、一応の調査を試みないわけにはゆかない事どもです。
だが、だれかれとたずね廻っても、一
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