い」を為すことになっていた。そこで寛文十年には「水あび御定《おさだめ》の覚」というものがあって、婚礼の翌一年は申すに及ばず、たとえ三年五年過ぎても、御前に於て水あびを申すべき事。
なお、「もみ[#「もみ」に傍点]」を以て水にかえることもあったと見られるのは、同じ定めのうちに、
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「もみ[#「もみ」に傍点]候事、上下衣服等もみ候ひて、人前出で難きほどの体《てい》成り候はば水むやくたるべくの事、一度もみ[#「もみ」に傍点]候上は水同然に候間、其上はもみ[#「もみ」に傍点]候事無用の事、附、無筋《すぢなき》儀を申立てもみ[#「もみ」に傍点]候儀無用たるべき事」
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というのは、もみ[#「もみ」に傍点]はすなわち胴上げのことであろうと思われる。
ところが、元禄五年に至って、玉置市正なるものが千石の加増を賜わって、知行《ちぎょう》二千石となるや、その翌年正月、光友から市正に小姓衣を振舞われた。その時、奥勤めの者集まって、市正に「水祝い」をするか、もみ[#「もみ」に傍点]にするかという内評議を聞いて、市正迷惑のことに思い、主人に聞え上げたと見えて、その時から禁止せられたということになっている。
この禁令は元禄十七年(宝永元年)十二月二十八日ということで、その時の廻文に、
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「手紙ヲ以テ申入候、近年婚礼相済ミ候者、水振廻ノ祝儀ヲ為シ、近所ノ者寄リ集マリ、作法|宜《よろ》シカラザル儀|之《こ》レ有ル段相聞エ候、以後右ノ様子ノ族《やから》、之レ有ルニ於テハ、急度《きっと》、御吟味ヲ遂ゲラルベキ旨、仰セ出サレ候、向後、相慎シミ、作法宜シキ様ニ仕《つかまつ》ルベキ旨、御老中仰セ渡サレ候条、其ノ意ヲ得ラルベク候、以上」
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とあるによって見ると、この「水祝い」がかなり無作法なものになって、この慣例をいいことに、ずいぶん人に迷惑を及ぼす弊害が多かったものと見える。
それでも儀式としてはまだ相当に残されていたものと見え、万治三年の正月に、家中水あびせがあった時に、侍たちが光友の世嗣《よつぎ》綱誠に向って、慰みのためにこの水あびせを御覧になるように申し上げたが、世嗣はこれをことわって、
「侍たる者を裸にして、庭上を引きずり廻ることは、更に行儀にあらず、作法が闕《か》ける。水あびせの事重ねて申し出てはな
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