「本所……」
 ここで米友が、ちょっと眼を円くしました。
 本所というところには、米友としてはかなり多くの思い出を持っている。
 向う両国も本所だし、鐘撞堂新道《かねつきどうしんみち》も本所だし、老女の家も本所であるし、弥勒寺長屋《みろくじながや》も本所のうちであったはず。
「本所」と聞いて、米友が思わず苦い面《かお》をしました。
 しかし、この男は、これより以上に詮索《せんさく》がましい聞き方をする男ではありません。
 女の人の方は、また、本所と言ったそのことが、急場の間に合わせ言葉かも知れない。そこで、おたがいの戸籍しらべは、それより進行しませんでした。
 こうして、本街道筋に出た二人は、ついにここで袂《たもと》を別たねばなりません。
「兄さん、お前さん、もし急ぎでなければ、千鳥塚を見て行かない?」
と、女の人の方から誘いをかけられて、
「そうさなあ」
 米友としては、歯切れの悪い生返事でしたが、少しも拒絶の意味には響いていない。
「急ぎでなければ、一緒においでなさいな」
「今晩は泊るかも知れねえと、先生の前へことわって来たには来たけれど」
「そんなら一緒に行って下さい、そうして都合によれば、わたしの宿へ今晩はお泊りなさいな」
「どうしようかなあ」
「一緒においでなさい、ね、千鳥塚はずいぶん淋しいところだと思うから、わたし一人で行くよりは、連れがあった方がいい」
「じゃあ、行ってみるとしようかな」
「そうなさいよ」
「うむ」
 米友は、脆《もろ》くもこの女の誘惑にひっかかってしまいました。
 常の米友ならば、一たまりもなく拒絶して、自分は名古屋に残して置いた主人のための責任感に向って一直線に動くはずであったのに、今日は存外歯ざわりが柔らかい。
 かくて二人は相前後して、路を裏に取り、教えられた通り、天王山の千鳥塚をさして行くべく、田疇《でんちゅう》の間の並木の中に身を隠してしまいました。

         五十四

 かくて二人が千鳥塚に着いた時分には、夕暮の色が、いよいよ濃くなっておりました。
 ここへ登って見ると、はじめて海が見える。この女の人が、絶えずあこがれているらしい海が、遥かに布を張ったようにほの白く見えました。
「ごらんなさい、ここへ来てはじめて、昔の鳴海潟の趣がわかりました。昔の歌によまれた時分は、海がもっと近かったのでしょう、だんだん、時代が
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