ようなもんだったが……」
 ここまではいいが、この辺からまた脱線、
「ところが、どうだ、現在はどうだ、その昔に対して恥じねえだけの英雄豪傑がドコにいる、いたらお目にかかりてえもんだ。名古屋味噌と、宮重大根ばかり幅を利《き》かしたって情けねえものさ。いったい、尾張の奴あ、自分の国から英雄豪傑を出しながら、その英雄豪傑を粗末にする癖がある、悪い癖だ。だから信長は安土《あづち》へ取られ、秀吉は大阪へ取られ、清正は熊本へ取られちまったんだ。それのみならずだ、近代になって、細井平洲という感心な実学者が出たんだ、ところがその細井平洲も米沢へ取られて、誰でも米沢の平洲先生なんていって、尾張の人だと気のつく奴もねえほどのものだ。そういう自分の国から出た英雄豪傑を、有難がらねえような了見ではいけねえから、それで道庵が示しのために、わざわざ自腹をきって、ああやって太閤祭りをやって見せたのさ」
「なるほど」
「この間、お前と供養のお祭りをした太閤秀吉の生れ故郷は、ここから見てドコに当るか、お前わかるか」
「おいらにゃあ、さっぱり見当がつかねえよ」
「そうら見ろ、あの田の向うに当って、こんもりと森になったところがそれだ」
「なるほど」
「ところで、友様、東西南北がわかるか」
「わからねえ」
「そうら、こっちが西だ、遥か向うの平野に雲煙縹渺《うんえんひょうびょう》たるところ、山がかすんで見えるだろう、あれが伊勢の鈴鹿山だ」
「えッ、伊勢の鈴鹿山かい」
 米友が眼を円くすると、道庵が乗り気になり、
「そうだ、あれから南に廻ると関の地蔵に、四日市、伊勢の海を抱いて、松坂から山田、伊勢は津で持つ、津は伊勢……」
「うーん」
 その時|唸《うな》り出した米友の顔色を見て、道庵が少しあわてました。
「あれが伊勢の国……違えねえな」
 米友の円い眼が爛々《らんらん》と光り出します。この男はついその生れ故郷の隣国まで来てしまったことを今はじめて教えられた。そうして、その故郷の山河を、目の前につきつけて見せられていることを、言われなければ気がつかなかったのです。
 伊勢と言われて、火のついたようになった米友を見ると、道庵も、はたと思い当ったことがあります。
「友様、おたがいに、つい知らず識《し》らずここまで来てしまったが、ここへ来ると、伊勢が眼と鼻だから、変な気になるのも無理は無《ね》え、おれにとっても、お
前へ 次へ
全257ページ中88ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング