、ついに嘔吐《おうと》をはじめてしまいました。
 兵馬は、二人をなだめる役に廻り、
「どうだ、これで実証が出来たからひとつ、下りてみようではないか」
「いやいや、あんな奴の通った路や、汚した滝壺なんぞ、見たくも無《ね》え……」
 噛んで吐き出すように丸山がいう。
「白骨で聞いた尺八と、あの神主めの面《つら》を見ると、生命《いのち》を削られるようだ」
 仏頂寺が、踏んで蹴飛ばすように言う。それを兵馬は笑止《しょうし》げに、
「いや両君、君たち、もう少し深くつきあって見給え、あの神主はいい人間だよ、行《ぎょう》ばかりじゃない、なかなか人間味もあってね。世間も渡っているから、諸国の地理、人情、風俗にわたっていること驚くばかりだ――それで言うことが徹底して、往々聖人のいうようなことを言い出すよ――白骨であの神主に逢ったことが、拙者の今度の旅の、第一の獲物《えもの》であったかも知れない」
「ペッ、ペッ、ペッ」
「ペッ、ペッ、ペッ」
 仏頂寺と丸山は、兵馬の神主讃美の言葉を聞くさえ、堪えられぬもののように、再び嘔吐を催すのを、ペッ、ペッと唾を吐いて、ごまかすと共に、充分に軽蔑の意を表し、併せて、兵馬に、もうこれ以上説くな、聞いていられない、という表情をする。
 いよいよ、笑止千万《しょうしせんばん》に感ずる兵馬。
 その時、仏頂寺が急に思い立ったように、
「どうだ、宇津木、これから白川郷《しらかわごう》へ行ってみないか、飛騨の白川郷というのは、すてきに変っているところだそうだ」

         二十四

 ここに不思議なこともあればあるもので、名古屋の城の天守閣の上に、意気揚々として、中原の野を見渡している道庵先生の姿を見ることです。
 今時《いまどき》、尾張の中村で、豊太閤と加藤清正の供養を単独でいとなみ、容易ならぬ注意人物の嫌疑を受けて、脆《もろ》くも名古屋城下へ拘引されて来た道庵主従。
 その嫌疑が晴れるまでは、相当の処分を受けて牢屋住まいをも致すべき身が、こうして青天白日の下に、名にし負う名古屋城の、ところもあろうに、天守閣の上へ立って、意気揚々として、遠く中原の空をながめているなんぞは、脱線ぶりとしても、あまりあざやかに過ぎます。
 明治以後になって、あらゆる古城はみな解放されて、多くは遊客の登臨に任せている際にも、尾張名古屋の天守へは誰人も登ることを許されていな
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