運であるように思いました。
 だが、同時にまた前途のことが思われないでもない、これから高山までは八里の路、これは、ほとんど山坂のない平坦な道だとは聞いたが、何といっても名にし負う飛騨の国、雪の程度によっては、交通が杜絶《とぜつ》しないとも限らぬ、どのみち、この雪の降りあんばいを見るべく、今日の出発を見合わせよう。
 食前に、昨夜の風呂場へ行って見ると、これまた意外。
 外は、この通り天候険悪であるのに、広くもあらぬ浴槽の中は全くの満員――芋を揉《も》むというけれども、桝《ます》の上に芋を盛ったと同じことに、全く身動きもできない老若男女が、ギッシリと詰まっていました。
 しかしながら、桝に盛られたこの立錐《りっすい》の余地なき人間の一山は、それを苦にもしないで、盛られたままに歌うもあれば騒ぐもある。それで、あとから来るものが必ずしも、その光景に辟易《へきえき》せず、傍へ寄って来て、お茶を濁している間に、いつか知らず、その立錐の余地もない中へ割り込んでしまって、親芋子芋の数になってしまう。
 そうして、別段、ハミ出されたものもないらしいから、あのギッシリ詰まった一山の中へも、入れば入れるものだなと、兵馬は呆《あき》れ果て、自分がその中へ割り込もうという気には、どうしてもなれません。
 ぜひなく、手持無沙汰に部屋へ引返して来ました。
 まだ、火鉢には火の気が無い。再び寝床にもぐり込み、さしもの浴槽も、どうせ、そのうちにはすくだろう、すいた時分を見計らって、悠々一浴を試むるがよろしい。とはいえ、昨夜は、どこを見ても、あれほどの混雑は想像されなかったのに、今朝になって、急にあの有様、昨夜のうちにあの客が着いたのか、着いたとすればどこから来たのか。兵馬は、そんなことを考えながら、再び蒲団《ふとん》にもぐり込んでいると、ほどなくカルサンを穿《は》いた宿の男が、火を持って来てくれました。
 それに、たずねてみると、なあに、明神様のお日待ちがありますんで、そのくずれでございますよと、要領を得たような、得ないような返事。
 朝飯には椎茸《しいたけ》と卵を多く食べさせられ、正午《ひる》近い時分、浴室へ行って見ると、こんどは閑として人が無い。そこで、思うままに一浴を試みていたが、あれほどの人はどこへ行った、自分のほかにはほとんど客の気配はないではないか。
 やや、しばらくあって、手拍子面白
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