として、明るい気分の湯に浸っているのとは、周囲も、気分も、全然違い、ここへ来て見るとはじめて、たしかに白骨には何かいたという気分がしてならない。あの短笛の音も変じゃないか。あの娘――あの冬籠りの人々――二階から三階にわたる陰気なる夜の音。
 上から射す初冬の光線は極めて明るかったが、その明るさも、いま考えてみると杲々《こうこう》とかがやき渡る太陽の光の明るさではなかったようだ。白骨の月夜は名物ときいたが、月の光が昼間まで照り残っているということはあるまい。
 さりとて、鐙小屋《あぶみごや》の神主殿の面《かお》が、白日の下に、明る過ぎるほど明るかったと思うのも、ものの不思議。
 やはりお化けが出なかったかと言われて、はじめて兵馬は物《もの》の怪《け》に襲われた心持で、
「ははあ、白骨にはお化けが出るなんて、そんな噂《うわさ》があるのですかね」
「ありますとも、もし……出なけりゃ不思議なもんだと、こっちではみんな、そういっておぞけをふるっておりますよ」
 これは湯槽の中の輿論《よろん》のようで、この地では誰ひとりとして、白骨にお化けが出るということを信じないものはないようです。
「そうでしたかね、我々はあそこにいても、一向お化けというものを聞きもしなかったし、無論、見もしなかったが、いったい、そのお化けというのは、どんなお化けですか」
「いくつも出るそうですが、そのなかで、高山の淫乱後家《いんらんごけ》と、男妾《おとこめかけ》の浅公……」
と四十男が浅黒い面《かお》に、思いのほか白い歯並を見せてニヤリと笑いました。
「ははあ、高山の後家さんと、なにがしの若者、それが化けて出るというのですか」
「そりゃ見た人があるから、たしかなもんですが、そのほか、いろいろな化け物が、この冬は白骨に巣をくっているってますから、こちらからは誰も参りません。尤《もっと》も、ふだんでさえ冬は人の住まない土地ですから、行かないのはあたりまえですけれど、今度のお化け話はこの夏の終り頃からはじまりました」
「そうですか、拙者は、ちょっと道に踏み迷うたという形で、あの温泉場へ参り、直《ただ》ちにこうして引上げて来たのですから、お化けにお目にかかる暇《ひま》が無かったものと思われます、もう少し逗留《とうりゅう》していたら、そのお化けが挨拶に来たかも知れません」
 兵馬が存外、あきたらず受け流すのを、一同
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