れましたよ」
「よろしうござんすかね、塩梅《あんばい》は」
「まず、このくらいのところならよろしうござんしょう」
道庵ほどになれば、嘗めてみないでも、眼で見ただけでも、味がわかるのかも知れません。
「にじむようなことは、ごわんすまいか」
「なあに大丈夫ですよ」
「分量は、このくらいあったら足りましょうでがんすかなあ」
「足りますとも、藤原の大足《おおた》りのたりたりで、余るくらいですよ」
「余りますか? そんならひとつ、先生、恐縮でがんすが、その余りでもって、唐紙《とうし》を一枚けえ[#「けえ」に傍点]ていただきてえもんでごわす」
「お安い御用だね、何なりとお望みなさい、こっちは、謙遜するほどの柄で無《ね》えんでげすからね」
と、道庵先生が答えました。
どうも問答を聞いていると、さっぱり予想と要領が外《はず》れるのに困る。まず、すれましたかな、すれましたの挨拶は無事でしたが、次に、にじむようなことはごわすまいかが、少々オカしくなってくる。にじむ味噌と、にじまない味噌とあるのかしら。
この辺は、味噌の名所だということだから、ところ変れば品変る方言も無いとはいえまいが、余ったら、それで唐紙を一枚けえ[#「けえ」に傍点]てもらいてえという言い分はどうしてもわからない。
味噌と唐紙とは、ついてもつかない取合せです。それを易々《やすやす》と請合った道庵先生の返答もいよいよわからないが、なあに、それは最初から、問題のすりばちの中をよく見ておきさえすれば、何のことはなかったのです。
坊さんは味噌をするべきもの、擂鉢《すりばち》の中には味噌があるべきものと、前提をきめておいてかかったから、こんな行違いが生じたので、坊さんといえども、必ず味噌をするべきものではない。それは多数の坊さんの中には、味噌をする坊さんもあるにはあるが、全体の坊さんが、必ず味噌をするべきわけのものではないという物の道理と、それから擂鉢の中には、味噌を入れる擂鉢もあることはむろんであるが、擂鉢の全体が必ず味噌を入れなければならぬと規定すべきものではない。
そこの融通が、淡泊にわかっていさえすれば何でもなかったのです――この場合、擂鉢に入れられたのは、味噌ではなくて墨汁でありました。味噌をするべき擂鉢で、臨時に墨をすっただけのことであります。
それで一部分の事件が判明してきました。この坊さんが自分です
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