「左様ならば、我々も御免を蒙《こうむ》りまして。しかし、我々がこうしていい気になって、碇《いかり》を下ろしては、失礼はさて置き、御病気におさわりになるようなことはございますまいか」
 再び念を押してみると、
「そんな御心配は御無用です、今日は大へん気分がよろしいので、お話相手が欲しいと思っていたところでございます、心置きなくごゆるりと」
「しからば、御免を蒙りまして」
 この晴れやかな問答を聞いて、誰よりも胸を撫で下ろしたのは、お雪ちゃんです。
 テレきった自分の立場が完全に救われたのみならず、この人が、こんなにまで、快く人を待遇する気になったのは、来客のために無上の快感であるのみならず、本人自身の病気というものが、全く調子をよみがえらせたものとみないわけにはゆきません。いずれもの意味に於て、お雪は春の光が急に障子の外にまばゆくさし込んで来たような、嬉しい感じでいっぱいになりました。
「さあ、どうぞ、ごゆるりと」
 お雪は、欣々《いそいそ》として、炬燵《こたつ》の蒲団《ふとん》をかきあげたり、座蒲団をすすめたりしていると、北原は持参の蕎麦饅頭《そばまんじゅう》と、塩せんべいをお雪の前へ出し、
「おみやげです」
「恐れ入りました、たいそう遠いところからおいで下さいました上に、こんな過分なおみやげまでいただきまして……ホホホ」
とお雪ちゃんが愛嬌《あいきょう》を見せると、北原が、
「せっかく心にかけての訪問でございますから、何ぞと思いましたが何もございません、ホンの有合せ、これが私共の土地の名物だそうでございます」
 そこでお雪は、お茶をいれにかかりました。
 炬燵に落着いたその刹那《せつな》に、友禅の蒲団にからまっていた書物が一冊――ハラリと飛んで北原の右の膝下に落ちたものだから、北原は何気なく、これを拾い上げて見ると、
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「近世説美少年録」
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 ははあ、宿のつれづれに読むものとしては、ありそうなもの。
 北原も、ちょっと合《あい》の手《て》に、それを取り上げて見ると、北斎の挿絵が、キビキビと胸に迫るもののあるのを覚える。本文は読まずに飛ばして、紙を二三枚めくると、そこに折り目をつけ込んだところが一枚あります。
 本来、読みさしの本には、有合せでも何でもいいから栞《しおり》を入れて置くべきもの。中身の本紙を折畳むことは、
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