ぜん》として、暫く口をあけていましたが、
「オットセイは来ないよ、オットセイの来べきところでもなかりそうだ」
「そんならいいが番兵さん、もしオットセイが来たら、殺さないようにして帰しておやり、子供がかわいそうだから」
 番兵さんは、茂太郎の申し出を奇怪なりと感じないわけにはゆきません。
 この際、特にオットセイを持ち出して来るのが意外なのに、そのオットセイに親類でもあるかの如く、懇《ねんご》ろに、その訪れた時の待遇を頼むのがオカしいと感じないわけにはゆきません。しかし、オットセイなるものに就《つい》ては、この番兵さんも、名前こそ聞いているが、その知識はあんまり深くないものだから、
「鹿の子でも、オットセイでも、来れば大切《だいじ》にしてやるが――茂坊、オットセイは魚だろう、山にいるものじゃなかろう、北の方の海にいるお魚のことだろう、だからオットセイが、牧場へ逃げて来るなんてことは、有り得べからざることだよ」
「いいえ、違います」
 茂太郎は、オットセイの知識については、何か相当の権威を持っていると見えて、首を左右に振って、番兵さんの言葉をうけがわず、
「違いますよ、オットセイはお魚じゃ
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