てはいるが、それでも、いま、眼の前に現われたほどの黒船は、あまり見なかった黒船であります。
 木造、螺旋式《らせんしき》、三本|檣《マスト》、フリゲット――長さは無慮二百四五十尺、幅は三十尺以上四十尺の間、排水は、玄人《くろうと》の目で見て三千トンは動かぬところ――
 それが悠々《ゆうゆう》として浦賀海峡の真中、江戸の湾口に横たわっているのですから、船を見るに慣れた浦人《うらびと》の眼をも、驚かさないわけにはゆきません。
 眼を驚かすばかりでなく、心を戦《おのの》かしむることは、浦々の人が浜辺に出て指さし罵《ののし》りさわぐ面《かお》の色を見ても、明らかです。
 もうすでに番所番所から、役向役向に伝えられたに相違ない。昨日出張の目附《めつけ》は、さだめて早馬を飛ばせて江戸へ注進に及んでいる最中でしょう。館山、北条あたりの海上からも、幾多の早舟が飛び出すところを見れば、船手からの注進をも急ぐものと見える。
 一方、黒船の方を遠眼鏡で見ると、バッテイラを卸しはじめたようです。
 スワこそ、バッテイラで乗込んで来るぞ、うかうかしていた日には、元寇《げんこう》に於ける壱岐《いき》対馬《つしま》
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