それは主として将軍の御用であるほかに、極めて僅少《きんしょう》の部分が、大名その他へわかたれる。
 売下げを希望する者は、江戸の雉子橋外《きじばしそと》の御厩《おうまや》へ、特別のつてを求めて出願する……その貴重なる薬品を、番兵さんの役得とはいえ、茂太郎はここで振舞われたことを、光栄としなければなるまい。
 光栄は光栄かも知れないが、甘くも、辛くも、なんともないことは争われない。そのはず、白牛酪《はくぎゅうらく》とはすなわちバタのことで、茂太郎は、パンにもなんにもつけないバタを、高価なる薬品として振舞われているのだから、ばかばかしいといえば、ばかばかしいこと。
 長い間、嶺岡牧場《みねおかぼくじょう》の白牛酪は、斯様《かよう》に貴重な霊薬としての取扱いを受けておりました。
 バタを食べさせられて、変な面《かお》をしていた茂太郎を、番兵さんは、流し目に見ながら、鯨のことを話し出しました。
 それは、魚なりや、獣《けもの》なりやというさいぜんの論争の引きつづきではなく、主として自分の見聞から、鯨は子を愛する動物であるという物語であります。
 いずれの動物でも、子を愛さない動物はないが、ことに、鯨ほど子を可愛がる動物はあるまいとの実見談を、番兵さんが、茂太郎に話して聞かせました。
 子鯨を殺された親鯨が、毎日その時刻になると港外までやって来て、或いは悲鳴をあげ、或いは直立して威嚇《いかく》を試みつつ、子供を返してくれと訴うる様のいかにも哀れなのに、その子鯨を殺した漁師が、熱病にかかって死んでしまった、という話を聞いているうちに、茂太郎が、親というものは、動物でさえもそれほど子を愛するものだから、自分も当然親に愛されていなければならないはずなのに、その経験も、記憶も無いということが、この場合になって、茂太郎の興をさましてしまいました。
 そんな話で、かれこれして眠りについた時分、外はさらさらと時雨《しぐれ》の降りそそぐ音。
 それがかえって、しめやかな夜を、一層静かなものにし、時々海の彼方《かなた》でほえるような声が遠音に聞える。
 半島国とはいえ、ここから海はかなり遠かろうのに、あの吼《ほ》えるのは海の中から起るようだ。
 それが気のせいか、鯨がやって来て「子をよこせ」「子をよこせ」と叫んでいるように、茂太郎の耳に聞える――

         十一

 その夜、茂太郎は鯨の夢を見ました。
 港の外の渺々《びょうびょう》たる大洋を、巨大なる一頭の鯨が悠々《ゆうゆう》と泳いでいる。ふと見るとその傍に可愛らしい鯨がついている。
 大きいのは母鯨だろう。母子は平和な海に、愉快に泳いでいる。
 と、それを見つけた漁師が、けたたましく叫ぶ。みるみる無数の鯨舟が、その二頭の鯨を囲《かこ》んでしまった。
 漁師共がいう、まず子鯨を殺せ、親鯨はひとりでに捕れる、と。
 そこで取巻いた二十|艘《そう》ばかりの八梃櫓《はっちょうろ》の鯨舟が、銛《もり》を揃えて子鯨にかかる。
 子鯨は負傷する、親鯨はそれを助けんとして奮闘する。鯨舟はこっぱのように動揺する。
 母鯨は、子鯨の上にのしかぶさって隠そうとする。子鯨は、負傷に苦しがって浮き出すと、鰭《ひれ》の上に載せていたわる。その隙を見て銛が飛んで来る。
 親鯨は、鰭と身体《からだ》との間に、子鯨をはさ[#「はさ」に傍点]んで海の底深く沈もうとするのを、銛がその母鯨を刺す。烈しく怒った鯨の震動で、漁舟が二艘|微塵《みじん》に砕ける。
 ついに、親と子は離れ離れになった。漁師共は得たりと、半殺しにしてしまった子鯨を、綱で結んで舟へ引き上げようとする。
 深く沈んだ母鯨の姿が、見えなくなってしまった。
 とうとう、親の方を逃がしちゃったと漁師共が口惜《くや》しがる。
 逃げたんじゃない、沈んでいる、沈んでいる、と叫ぶものもある。
 外洋《そとうみ》でなければ鯨は、死んでも沈むものじゃない、と怒鳴るのもある。
 逃げたのは男親だ、男の親鯨は逃げるが、母鯨というものは、決して子を捨てて逃げるものじゃ無《ね》え、そこらにいる、そこらにいる、とガナる者もある。
 一旦は逃げても、直ぐに来るから用心しろ、用心してつかまえてしまえ、と声をしぼって警《いまし》める者もある。
 そこで、海岸が暫く静まったが、やがて、すさまじい海鳴りがすると共に、果して大鯨が奮迅《ふんじん》の勢いで、波をきってやって来た。
「そら来たぞッ」
 漁師共の銛《もり》と、船とは、麻殻《おがら》のように、左右にケシ飛んでしまう。
 一気に、子鯨のつながれてあるところへのして来た親鯨は鰭《ひれ》でもってハッタとその綱を打ちきってしまった。そうして子鯨を抱いて、まっしぐらに外洋の方に逃げ出すと、早くも鯨舟が港の出口をふさいでいる。
 そこで出鼻をおさえら
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