。そこで茂太郎も応酬しないわけにはゆきません。
「でも、学者がそいったよ」
 この場合、茂太郎は、自分を当面に出さないで、学者を矢面《やおもて》に立たせました。
「学者? ドコの学者が、鯨が魚でないなんていう学者は、唐人の寝言だろう」
「でも、立派な学者がそいったよ」
 茂太郎は、どこまでも学者を楯《たて》に取る。これは名は現わさないが、多分、駒井甚三郎のことではなかろうかと思う。
「ばかばかしいよ、学者が言おうと、誰が言おうと、そんなことを本当にする奴があるものか、論より証拠、まだ鯨の本物を見ないんだろう」
「ああ、見ないけれど、立派な学者がそう言うから」
「立派な学者もヘチマもあるものか、本物を一目見りゃわかることだよ、百聞は一見に如《し》かずだあな」
 今度は番兵さんが得意になりました。
 茂太郎がいかに大学者を引合いに出そうとも、現に見ていることより強味はない。自分は幾度も鯨の本物を本場で見ている――という確乎《かっこ》たる自信があるから、番兵さんの主張は、さすがの茂太郎も、如何《いかん》ともすることはできない。しかしまだ、どうしてもあきらめきれないものがあると見えて、
「マドロス君もそいったよ、鯨は魚じゃないんだって」
「お前がだまされてるんだよ、からかわれてるんだよ。もう、そんな話はおよし、鹿の子もそんな話は聞くのはイヤだといって、ああして親牛の腹へもぐりこんで寝てしまったあ」
 茂太郎は、まだまだ、あきらめきれないものがあるけれど、相手が受けつけないのだからやむを得ない。
 そこで鹿の子が、親ならぬ親を親として、その懐ろに安んじて眠り、牛の親が、子ならぬ子を子として、二心なく育てる微妙な光景を見ていると、この分では、狼の子が来ても、牛はそれを憎まずに愛し得るだろうと思われる。
 平和なる動物、忍従の動物、沈勇の動物、犠牲の動物、労働の動物、博愛の動物、そこで古来神として祀《まつ》られた動物。
 ただいまの論争は忘れて、それをしげしげと見入った清澄の茂太郎、
「オットセイじゃ、ああはいかないんだぜ」
 この子は、オットセイに対して、よくよく執着があるものと見える。そうでなければ、鯨で言い伏せられた腹癒《はらいせ》に、先方の知識の薄弱なところをねらって、オットセイで論鋒を盛り返そうとするのかも知れない。
「ねえ、番兵さん、牛はあんなに他人(?)の子でも大切《だいじ》にして育てるけれど、オットセイの親はなかなかあんなことはしないんだぜ。オットセイの親は、なかなかああはいかないんだからな」
「オットセイの親が、どうしたというのだ」
「オットセイの母親というのはね、番兵さん、自分たちの餌《えさ》をさがすために、三十里も遠くの海へ出るんだとさ、そうして帰って来ると、内海《うちうみ》に置いて行かれたオットセイの子が、お乳を飲みに寄って来るが、オットセイの子は、自分の母親がドレだかわからないものだから、どの母親にでも行ってかじりつくが、母親の方では、自分の子供だけにしかお乳をやらない、ほかの子供がかじりつくと突き放してしまう、だから、外海《そとうみ》へ餌を取りに出たオットセイの親を人間がつかまえると、その子は餓え死んでしまうのだって……だから今では、外海でオットセイを捕らせないことになっているんだって」
 茂太郎は、マドロス仕込みであろうところの、オットセイの知識を物語りました。

 牧場、牧舎の見廻りが一通り済んで、小舎《こや》へ帰って、二人水入らずの晩餐《ばんさん》の後、番兵さんは一個の曲物《まげもの》を、茂太郎の前に出して言う、
「茂坊、薬物《くすりもの》だから少しお食べ」
 それは色の白い、ベタベタした透油《すきあぶら》のようなもの。飴《あめ》のようで飴ではない。あんまり見慣れないもので、第一、食べようからしてわからないから、遠慮をしていると番兵さんは、耳かきのような杓子《しゃくし》を取添えて、
「これは、チュガ公の母親がこしらえた白牛酪《はくぎゅうらく》だよ、薬物だから、少しお食べ」
 すすめられるままに、その匙《さじ》のような杓子ですくい取って、少し食べてみたが、甘くも、辛くもない、薬物だというから、苦くもあるかというにそうでもない、妙に脂《あぶら》っこい、舌ざわりの和《やわ》らかな、口へ入れているうちに溶けてしまいそうなものだから、
「何だい、番兵さん、これは、味もなにも無いじゃないか」
「薬物だからね」
「何の薬になるの」
「何の薬ってお前、白牛酪なんてのが、滅多《めった》に口へ入るものじゃないよ」
と、そこで番兵さんが、茂太郎に、白牛酪の講釈をして聞かせました。
 白牛酪は、この牧場の白牛に限ったものである。この牧場の白牛から搾《しぼ》り取った乳が、すなわち白牛酪となって、天下無二の薬品と称せられているのだ。

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