た。
しかし、なにも悪いことをしたんでなければ、そう、まっしぐらに走らないでもいいではないか。番兵さんの熟睡を見すまして逃げて来たんなら、そう物に追われるようなあわただしい脱走ぶりを、試みなくともいいではないか。
だが、この少年は、なお驀然《まっしぐら》に走りつづけることをやめない。どうしても後ろから、追手のかかる脱走ぶりです。
果して、後ろに足音がする。足音がバタバタと聞え出して来た。スワこそ!
しかし、仮りに番兵さんに追いかけられて、つかまってみたところで、何でもないではないか――
その以外の、誰かこの辺のお百姓にでも怪しまれて、取捉《とっつか》まってみたところで、タカが子供ではないか――
狼が出たって、熊が出たって、コワがらないこの子が、何に怖れてこうもあわただしく走るのか、了解のできないことだ。
だが、その後ろから、起る足音の近づくを聞くと、茂公はなお一層の馬力をかけて走る。
後ろのは、得たりとばかり追いかける足音が、いよいよ急です。
前の走る者の了簡方《りょうけんかた》もわからないが、後ろから追いかけて来る奴の心持もわからない。おーいとも言わず、待てとも呼ばず、ただ、足をバタバタさせて追っかけて来るばかり。
しかしながら、この競走の結果は大抵わかっています。何をいうにも茂太郎は、子供の足です。もうどうにもこうにも、あがきがつかなくなったと見えて踏みとどまり、追いかけて来る後ろの足おとを、恨めしそうに、闇の中から眺めて、
「叱《し》ッ、叱ッ」
と言いました。これもたあいのないこと。ここで、「叱ッ、叱ッ」と小さな口で叱ってみたところで、辟易《へきえき》する相手ならば、ここまで狼狽《ろうばい》して逃げて来るがものはないではないか。茂太郎は下へ屈《こご》んで、右の手で石を拾い、
「叱ッ、叱ッ、お帰りというのに」
再び叱りながら、その石を、闇の中へめがけて投げ込みました。
手ごたえはあるにはあったのです。茂太郎の投げた石で、追い迫った足音はハタと止みました。
相手も相手です、このくらいの威嚇《いかく》で辟易するくらいなら、追いかけるがものもないではないか。
そこで、茂太郎は、またしても足を立て直して、まっしぐらに走り出すと、つづいて、例の足音が、ばたばたと追いかける。
走ること暫くにして、どうしてもまたあがき[#「あがき」に傍点]がつか
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