れたところを、また無数の鯨舟がやって来て、周囲から攻め立てて、とうとう子鯨を取り返してしまった。
怒気、心頭に発した母鯨は、行手をふさいだ港口の鯨舟数隻を、粉々にたたきこわすと、そのまま再び外洋に逃れ去ってしまった。
漁師共もあきらめて、その子鯨だけを大切な獲物《えもの》にして引上げる。
それからまた暫く海が平和であったが、やがて海鳴りがする。
港の外を見ると、またやって来た。母親がそこまで来たには来たが、以前の奮迅の勇気は無く、港の外へ来て悲しげに泣く。海が急にわき立ったかと思うと、母鯨は、燈台が崩れたように海中に直立して、真白い腹を鰭でたたきながら、「子を返せ」「子を返せ」と狂いまわる――その哀求の声。
茂太郎は、その声でガバと起き上ってしまいました。
外で子をよこせ、子をよこせと哀願している声は、自分を迎えに来たもののように、茂太郎の耳に響きます。
もう寝られない。寝られないとなれば、この少年は無意味に辛抱して、強《し》いてじっ[#「じっ」に傍点]としていることは一刻もできない性質です――鯨が呼んでいる。鯨ではない、自分の母親が呼んでいる。母親でもないが、誰か自分を呼んで、早く帰れ、早く帰れと呼んでいる。この少年は矢も楯もたまらなくなって、飛び起きてしまいました。
ややあって、雨をおかして石堂原をまっしぐらに走るところの清澄の茂太郎を見ました。
笠をかぶり、蓑《みの》をつけているけれども、それは茂太郎に相違ありません。彼は物に追われたように走るけれども、別段、追いかけて来る人はない。
けだし、寝るに寝られず、じっとしては一刻もいられぬ茂太郎は、番兵さんの熟睡の隙《すき》をねらって飛び出して来たものだろう。そうでなければ番兵さんだって、いったん泊めたものをこの夜中、雨の降るのにひとり帰してやるはずはない。
そんならば、蓑笠はどうしたのだ。
さいぜん、古畑の畦《あぜ》で、あの案山子殿《かかしどの》をがちゃ[#「がちゃ」に傍点]つかせていたものがある、多分、あれをそっと借用したものに違いない。
興に乗じての脱走は常習犯だが、他人の持物を無断で借用して、その人を困らせるような振舞は、かつてしたことのない茂太郎だから、無人格な案山子殿のならば、無断借用も罪が浅いと分別したのかも知れません。
雨を衝《つ》いて茂太郎は、蓑笠でまっしぐらに走りまし
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