、弁信法師が傍《わき》についている限り、それを訂正しないでは已《や》みません。
「鄭声《ていせい》の雅楽《ががく》を乱すを悪《にく》む」――とかなんとかいって干渉するものですから、せっかくの興を折られた茂太郎の不平を買うことが一再ではありませんが、それでも素直に弁信の忠告に従って歌い直すのを常とします。
 ここには、無論、その弁信はおりません。
 寂寞《じゃくまく》たる空山《くうざん》の夕べを、ひとり山上に歩み行くのですから、何を歌おうと、あえて干渉する者はないのですが、習い性となって、ふと弁信からの横槍《よこやり》をおそれ、そこに良心のひらめきというようなものがあって、自発的に「人も通らぬ山道」の歌を中止してしまったのかとも思われます。
 それは中止したけれど、茂太郎のブレスがこの時は、もう歌をうたうようになっていたのですから――そこで直ちに出直して、
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二人行けど
行き過ぎ難き
秋山を
いかでか
君が
独《ひと》り越ゆらん
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 ゆっくりと、うらさびしく歌い出しました。これならどこからも干渉の来《きた》る憂《うれ》いはあるまい、と安んじたのでしょう。
 しかし干渉は来らないが、感傷の起るのはぜひもないと見えて、茂太郎は愁然《しゅうぜん》として、同じ調子を二度繰返されてしまいました。
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二人行けど
行き過ぎ難き
山道を
いかでか
君が
独り越ゆらん
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 二度目の歌では字句に少しの変化がありましたけれど、調子にはさのみ変りはありません。
 歌いきった後、
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いかでか君が独り越ゆらん――
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 これを茂太郎は折返しました。
 聞くに堪えんや陽関三畳の詞《ことば》――といったような気分を自分が誘い出して、自分が堪えられないような心持で、ついに「く」の字に曲る路の折目に立って、暫く息を休めておりました――が、思いきって威勢のいい足を踏み出し、
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クマニセントー通る時ゃ
前から鉄砲でドカドカと
あとからラッパで責めかける
今年ゃ何で苦労する
皆、天朝さんのかかり
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 軍歌のつもりかも知れません。これを進軍の歩調に合わせて、ホイチニといわぬばかりの勢いで、一気に、房総第一の高山の頂上までのぼりつめて
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